ネコはミカンを片手に夜明けを待つ

日々の中で出会った映画・本・お店、演劇や物などを総合的に紹介する雑記ブログです。

劇場総集編『SSSS.DYNAZENON』感想

『SSSS.DYNAZENON』は放送当時(配信で見たからこの言い方で正しいかわからないけど)見ていました。

それ以来見返していなかったので、今回の劇場総集編を観ている中で「こういう話だったのか!」と意外と新鮮な気持ちになりました。

 

何といってもダイナゼノンの迫力ある戦闘シーンはスクリーン映えしていましたね。

もちろん前作の『SSSS.GRIDMAN』も迫力ある作品でしたが、大きな鉄の塊が動き回る重厚感は本作ならではの個性だったと思います。

 

あと改めて思ったのが、アニメに登場する怪獣はリアリティよりも派手さを追求すればするほど印象が強くなるんだと思いました。

あくまで自分の感覚ですが、実写特撮に登場する怪獣はシンプルな見た目でも強い印象を残せる。

それは特にウルトラマンやウルトラセブンに登場した怪獣たちを見ていて感じたのですが、アニメになるとシンプルなだけでは印象を残すのは難しい。

 

それが何故かと考えたのですが、やはりアニメだとどんなに技術が進歩しても実写のような『生命力』が感じられないんですよね。

それは言い換えると、怪獣を演じているスーツアクターさんの演技力のことなんですが、アニメだとそれがどうやっても計算された動きにしかならない。

逆に言うと、実写特撮に登場したら違和感のあるようなカラーリングや造形の怪獣でもアニメならいくら登場しても違和感がない。

 

SSSSシリーズを通して見ることで、自分なりにアニメに登場する怪獣について何が魅力的に感じるのかを考えることができたのは良かったです。

 

一方でストーリーの方に目を向けると、カットされていた部分も多かったように感じており、この映画で『SSSS.DYNAZENON』に初めて触れた人は少し困惑するんじゃないかと思いました。

 

ガウマの正体に関する部分とか、暦の同級生の話とかけっこうバッサリ切られていましたね。

もちろん元の作品を観ていたら話は分かるし、映画を観に来る人はほとんどが作品を見たことある人たちなのでしょうがその辺は賛否が分かれそう。

 

その代わり、作品の焦点が蓬と夢芽の2人に当てられていて、互いの距離が近づいていく過程が分かりやすく描かれていたのは良かったと思います。

少年と少女の恋愛模様は『SSSS.GRIDMAN』とは違う個性を本作に与えることに貢献しており、全ての始まりである『電光超人グリッドマン』にもあった爽やかさが時代を越えて本作にも受け継がれているんだと感じることができました。

 

あと、姉の真実を夢芽が知ることができたのはある意味では怪獣のおかげだよなと思いました。

ガルニクスがいたから夢芽は真実にたどり着けた。怪獣を倒しながらも、怪獣がいなかったらこういう結末に至れなかったんだよなと思うとどこか皮肉に感じます。

 

でもこれって見方を変えると「怪獣との遭遇という怖いことも、自分の意志によってプラスに変えていくことができるんだよ」ということなんだと思います。

実際に怪獣の出現によってガウマや蓬たちは出会い、絆を深め成長していった。

現実でも色々大変なことはあるけど、その中には悪いことだけじゃなくて良いこともきっと存在しているんだと。

だから蓬が何度壁に阻まれても夢芽の元に行こうとしたように、あきらめないで頑張っいこうよと。

 

そんなメッセージを感じることができました。

これは連続してずっと話を見ることのできる映画だからこそ、ストレートに感じることができたことだと思います。

 

個人的にはキャラクターの個性とか作品のまとまり具合では『SSSS.GRIDMAN』の方が好きなのですが、各キャラクターのドラマに関しては『SSSS.DYNAZENON』の方が好きです。

 

そして、そんなそれぞれの魅力を持った2つの作品のキャラクターたちが出会った時にどんな物語が生まれるのか。

『グリッドマンユニバース』の公開が楽しみです。

 

グレートダ・ガーンGXはなぜ弱かったのか

『伝説の勇者ダ・ガーン』に登場するグレートダ・ガーンGX。

主役ロボであるダ・ガーンXと同格のロボであるガ・オーンの2体が合体した地球側の最強勇者ロボである。

 

しかしながらこのグレートダ・ガーンGXは他作品の最強ロボと比べると、弱いという印象を持たれやすいロボだ。

実際作中では物語が後半になるにしたがって、単体で敵を倒す描写が少なくなり一方的に苦戦する場面が多い。

それ故に弱いという印象を持たれがちがだが、これは本作の構成にも原因がある。

 

『伝説の勇者ダ・ガーン』は前作である『太陽の勇者ファイバード』及び『勇者エクスカイザー』と比較して、ストーリーの連続性に重点が置かれている。

1話完結がメインで主役ロボが敵にとどめを刺す展開が多かった前2作。

対して1話だけでは話が終わらないダ・ガーン。

だからこそ必然的にグレートダ・ガーンGXが毎回敵を倒して終わるというパターンが使えないのだ。

 


第29話 復活!ダ・ガーン

グレートダ・ガーンGXの不遇はこれだけではない。

ライバルとして登場した敵ロボットのレッドガイスト。

 

このレッドガイストが強すぎるのだ。

本来ライバルキャラとは主役と同じくらいの強さを持っているからこそ魅力が際立つ。

しかしレッドガイストの強さは、明らかにそこから逸脱している。

グレートダ・ガーンGXがまるで歯が立たない強さ。

恐ろしいことにこの強さのレッドガイストでも、敵の中でも立ち位置はナンバー3の強さなのだ。

ダ・ガーンのラスボスは正体不明の宇宙の怪物・オーボス。

その下に腹心の部下であるドラゴン型の生命体・シアン。

その下がレッドガイストである。

 

レッドガイストに歯が立たないグレートダ・ガーンGXは、当然のことながらシアンにも手も足も出ない。

ダ・ガーンの敵がこれほどまでに強く描かれているのは、オーボスの侵略が本気であるということを表現したかったためと考える。

よくグレートダ・ガーンGXが弱いのではなく敵が強すぎるといわれるが、本当にその通りだ。

 

これまで宇宙中を侵略してきた敵が本気を出した時、ほんの数体のロボットに歯が立たないのはそちらの方が不自然だ。

ある意味ダ・ガーンとは物凄くリアリティを持った作品だった。

 

前置きが長くなったが、グレートダ・ガーンGXが弱く見えるのはダ・ガーンという作品がストーリー性を重視したことが大きい。

それまでと違った作風を目指した割を食ってしまったといえる。

 

一方で作品世界の視点から考えた場合、グレートダ・ガーンGXが弱く見えるのはこの形態が不完全な姿だったためと考えられる。

グレートダ・ガーンGXへの合体は、ダ・ガーンXとガ・オーンのピンチにほんの僅かに発動した伝説の力によって可能となった。

つまり、ある意味ではグレートダ・ガーンGXとは伝説の力の一端が形になったものといえる。

 

しかし、それはあくまで一端なのだ。

ダ・ガーンの最終回では完全に発動した伝説の力により、グレートダ・ガーンGXに全ての勇者ロボのエネルギーが一体となって『ダ・ガーンGX』という姿が誕生した。

作中では奇跡の姿のように描写されているが、実はこの状態こそグレートダ・ガーンGXの本来の姿だと私は考える。

 

地球の勇者ロボのエネルギーが全て一体となってこの形態になったことから、彼らの自身もまた伝説の力の一端だったのではないか。

それぞれが力の一端であり、不完全な状態であったからこそオーボス軍団に敵わない。

他の作品に登場する主役ロボが単体で完結した強さを持っていることに対して、ダ・ガーンがその強さを得るためには伝説の力の発動が必要不可欠。

つまり他の勇者とグレートダ・ガーンGXの強さを比較するならば、ダ・ガーンGXの状態で比較して初めて公平であるといえるだろう。

 

グレートダ・ガーンGXはオーボス軍団の前では確かに弱かった。

しかし理由もなく弱いわけではない。

作品の外と中で、常に本来の力を抑えられながら戦っていたのだ。

そう思った時、例え敵わないとわかっていても隊長である高杉星史の命令があれば『了解』の掛け声と共に戦いに挑んでいくグレートダ・ガーンGXの姿に気高さを感じずにはいられない。

 

主役ロボが弱く見え、なおかつその作品が弱さを売りにしていないなら致命的な問題だ。

しかし、だからこそ見方を変えた時に見えてくる魅力もある。

グレートダ・ガーンGXは、強さ以上にその心に魅力を備えたシリーズの中でも一風変わった位置にいる存在だったのではないだろうか。

 

 

 

 

短編アニメ『たいせつなもの〜こころつながる特別な場所〜』感想 〜腹を決める覚悟〜

ずっと応援していた推しがこの春に新しい世界に飛び立って以来、その現実を受け入れながらも最近はずっと魂が抜けたような日々を送っていました。
まるで体の半分がなくなってしまったようなそんな感じです。
 
それでこれからどういう風に気持を持っていくかをずっと考えていたんですけど、これがまたきつい。
何かをやろうと思っても、人生100年時代からすると若造でも決して若いとはいえない年齢。
人に自慢できるような経験もなく、そういうことに真剣に向き合ってこなかったという後悔。
それでますます動けなくなる悪循環。
 
そういうことをずっと考えている時に『Iターン』というムロツヨシ主演のドラマを見ました。
冴えないサラリーマンが無理やりヤクザの舎弟にさせられて、さまざまな困難に合いながらも次第に成長していくというお話。
終盤で酷い目に合い続けた主人公が、田中圭演じる敵対するヤクザに「何故自分だけがこんな目にあうのか」と尋ねて「身内を売るくらいなら死んだ方がましというような覚悟がないから」みたいに言い返される場面がありました。
 
これは自分的にかなり刺さりましたね。
 

前置きが長くなりましたが、とどのつまり今の自分を変えたいなら強い覚悟がいるということなんだなと感じます。
 
本当に大事なものは目に見えない。
 
短編アニメ『たいせつなもの〜こころつながる特別な場所〜』はそういう目に見えないものが持つものの本質を表現した作品です。
声優を目指す人たちを応援する企画『ドリーム声優オーディション』
本作は2021年度のグランプリ受賞者たちが参加したオリジナル作品で、ベテラン声優・速水奨や若手声優の野津山幸宏、伊藤美来も参加。
監督は名古屋に本社のある株式会社K&Kデザインの取締役を務める川上博。
 
有名小説『星の王子さま』を題材に、高校の朗読劇を舞台として「大切なものは目では見えない」ことを訴える本作。

公開されたのが2021年の12月で、本当はもっと早く記事にしたいと思っていたのですが今の自分の心境で改めて本作を見ると色々と感じることがありました。
 
これは『Iターン』の話にも繋がってくるんですが、人生を切り開くのはやはり『覚悟』なんだと感じます。
自分語りになって申し訳ないのですが、思い返すと自分は色々なことを諦めてずっと生きてきました。
行きたかった高校を諦め、行きたかった大学を諦め、働きたかった会社を諦め、恋人を作ることを諦め、家族を作ることを諦め、望むような収入を得ることを諦め・・・
 
でもそういう道を選択をしたのは間違いなく自分自身なんですよね。
変えようと思えばきっと方法はあったはず。
他人を恨んだこともあったけど、それが筋違いな恨みであるという出来事も多々あります。
 
満足できない心の空白を埋めるために、本やブルーレイをたくさん買ったりして物で周りを満たしても満たされない。
 
その理由は自分が本心から楽しいと思うことをしていないから。
 
これをやってる時は楽しいと感じることは自分にもあるんですけど、それを生業にしてやっていけるかと思うとやっぱり不安はあるんですよね。
でも諦めてばかりの自分を変えるにはやはり覚悟がいるんだろうなと。
 
「これをやれないで生きているくらいなら死んだほうがまし」
 
凄く極端ないいかたになるけど、そういうことをやって生きていかないと後悔だけの人生になると感じています。
 
作中で主人公は最後に、自分の大切なものに気づきます。
この『大切』というのは主人公と、それを演じたグランプリ受賞者の2人にかかっているものだと感じました。
受賞者の方にとって大切なものはその方がオーディションを受けた動機・・・ のさらに底にある本当の気持ち。
声優じゃない自分が書くのも恐れ多いのですが、結果という目に見えるもの以上にその方を突き動かす目に見えないものがその方の・・・ そして人間にとって大切なものなんだろうなと私は感じました。
 
長くはない作品なんですけど、声優を目指していない自分でも色々と感じるものが合った作品なので色々な人に見てほしい作品です。
 
九州から一番近いアリオ倉敷で、2021年に開催されたオーディションでグランプリを受賞したのは舞江さん。
作品を見て彼女の声と演技の魅力は繊細さにあると感じました。
 
特に作中のラストで主人公が大切なものに気づいた場面。
そこで敢えて感情を盛りすぎず、声を抑えているように自分には感じられて、逆に主人公が大切なものを見つけたことに説得力を持たせているように感じました。
抑えることで強さを表現する力。
自分にはそれが伝わってきて、まるで自分がその朗読劇のステージにいるように感じられました。
 
推しがいなくても、今までがどうでも生きていかないといけない。
コロナ禍も長くなりますが、一時は止まっていた社会もどんどん動き出してるなと感じています。
 
「できることを地道にやっていく」
 
そう考えていました。
でも今は自分が止まったままであることに焦りが尽きなくて「できないことかもしれないけどやりたいことならやってみる」にシフトチェンジする時なのかなと。
 
書くは簡単、実行は難しいけど目に見えない心の根っこを大切にしないと絶対に後悔するなと思います。
 
最後に。
自分は声優を目指している人間じゃないけど後悔とかコンプレックスで全身が構成されてるような人間。
だからきっかけを求めている人には、こういう企画に思い切って挑戦して欲しいなと老婆心ながら思う次第。
 

ドリーム声優オーディション2022実行委員会【公式】 (@DreamVa2022) | Twitter

 

 

『銀魂 THE FINAL』感想 銀魂に触れた全ての人に送られた祭り

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※この記事は映画のネタバレを含みます。

銀魂との出会いは偶然だった。

たまたま実家でCSのアニメ専門チャンネルを見ていた私。すると『ペガサス流星拳』という聞き慣れた単語が耳に入ってきた。

画面を見ると、侍のように見えなくもない男達がペガサス流星拳の構えがどうと騒いでいた。

「何だこれは!?」

そう思い内容もろくにわからぬままそのアニメを見ると、小気味いいギャグのオンパレードでぐいぐい作品に引き込まれてしまった。

番組表を見て、そのアニメのタイトルが『銀魂』ということを知った。

これが私と銀魂との出会いである。

その後このアニメが現在進行形で地上波で放送中であること、ジャンプで連載中の漫画であることを知った。2008年くらいの出来事だ。

思えば、もしこの時見ていたのがシリアス回だったら銀魂のアニメを追ってみようと思わなかったかもしれない。

私は元々、アニメをそこまで見ない人間だが心のどこかで面白い作品に飢えていたように思う。

その後の銀魂との付き合いは、主にアニメを見る形で続いた。

就職活動が上手くいかずどん底の時。やっと就職した右も左もわからぬ街で苦しんでいた時。色々あってまたも人生がどん底の時。

暗いことばかり思い出すが、いつでも銀魂のアニメは生活の中にあった。

何度かの中断と再会を繰り返しながら、アニメは今回の『銀魂 THE FINAL(ザファイナル)』で完結を迎えたわけだが、銀魂があると生活に落ち着きを感じる時代が確かにあった。

アニメ銀魂の歴史は15年。その間、恐らくは作品から離れていった人もいると思う。

一口に15年といっても、その間の世の中の変化は凄まじい。銀魂が始まった頃はスマホのスの字も誰も知らなかった。

大人なら、確実に大きな生活の変化を何度かは経験する時間だ。そうした忙しさに追われれば、離れてしまう作品があることも仕方ないのかもしれない。

今回の『銀魂 THE FINAL』はずっと応援してきたファンは勿論のこと、作品から離れてしまった人‥‥‥ 銀魂に触れた全ての人へと送られた祭りだった。

2018年に放送終了したアニメの続きであり、今回の映画をもって物語の全てに決着がつけられることになる。

アニメの終了から本作の公開までいささか間が空いてしまい、内容がうろ覚えになっている人もきっといるだろう。

そんな人達に向けて、いかにも銀魂らしいギャグで彩られたこれまでの粗筋が語られ、すんなりと作品に入れるようになっていた。

多数のキャラクターが登場する本作。

しかし何と言っても本作のコアは主人公・坂田銀時。

銀魂はギャグ漫画だが、同時にメインとなる柱の部分は銀時が大切な物を取り戻していく過程だ。

何気に映画が終わった後も謎の多い主人公ではあるが、銀時を巡る様々な人間関係が決着を見せることで、即ち銀魂そのものの完結としている構成は見事だった。

銀魂にどれほどの数のキャラクターが登場するかは、途中で本作から離れた人でも簡単に想像できると思う。

それだけのキャラクターがいながら、通常のギャグ回ではそれらのキャラクターを目立たせながらメインの部分ではきっかりと主人公を描き切る。

文章に書くと簡単だが、長期に渡る連載にも関わらずそこをきっちりとこなした原作者・空知英秋氏の手腕は凄いとしか言いようがない。

 

また、特に本作を鑑賞して印象に残ったのは『音』の使い方だ。

個人的な印象だが、本作は極力BGMを使うことを抑えている印象を受けた。

BGMだけではない。キャラクターの台詞も一つ一つ隙がまったく無かった。

銀魂と言えばマシンガンのようなギャグが印象的。

シリアスな本作ではそれを披露しようもなかったのかもしれないが、抑えられた音がラストに相応しい一種異様な雰囲気を醸し出していた。

まるで、初代ウルトラマンとゼットンの戦いがBGMを排してゼットンの電子音のみで展開されたように。

最大の敵・虚に象徴されるように、個人的に銀魂のテーマには「生と死」があると感じている。

それは具体的な形での『死』にとどまらない。

仲間も師も全てを失ったかっての銀時。何をしても上手くいかず自信を失くしていた、銀時に出会うまでの志村新八。

あるいは、天人に侵略された『国』そのものが一心を失ってしまったとも考えられる。

命はあるものに、一度は死んだ状態まで追いつめられた人々が大切なことを取り戻し、生きる力をみなぎらせていく。

振り返れば銀魂とはそんな物語だった。

アニメの展開も終盤に入り、それまでギャグを披露していたキャラクターが次々と死んでいく姿に衝撃を受けた。

だが、今思えばそうした描写は本作のテーマを描くうえで必要不可欠なものだったことに気づく。

『銀魂 THE FINAL』での高杉晋助の死をもって、本作の「生と死」を巡るドラマは完結を迎える。

だがそれは決して後ろ向きな内容ではない。

何度心が砕かれ、何度泥を喰おうとも生き続けていれば結果はどうなっても人は生きる力を取り戻すことができる。

それが幸せに続くのだと、いつもの銀魂の小気味良いギャグで語られていた。

長きにわたる壮大な物語は、キャラクターがいつもの日常に戻っていく姿で締め括られる。

これからも近藤はお妙をストーカーし続けるだろうし、土方はマヨネーズを喰らい続けるだろう。

桂はギャグを繰り返し、長谷川はダンボール生活を続ける‥‥‥ かもしれない。

キャラクターの誰もが何かを失いながら、それでも日々を過ごしている。それは生きることそのものだ。

では現実世界の私達にそれはできないのだろうか?

できるはずだ。私達も生きているのだから。生きることを肯定する作品・銀魂。

その完結が描かれた本作は、銀魂に触れた全ての人にエールをくれるだろう。

願わくば、ドラえもんやサザエさんのようにずっと銀魂を見ていたい。

いつも日常に銀魂がある安心感。またいつかそれを感じたいので、未来で万事屋の面々と再会できることを願っている。

 

★アニメ『銀魂』は動画配信サイト『U-NEXT』で配信中。31日間の無料トライアル有り。期間中に解約すれば料金は発生しません。

 

 

 

 

 

令和にドラえもんズの復活を望むお話

 こんにちは。管理人の侑芽です。

ワードプレスでブログをはじめて一年が経過しました。その丁度一年目に、はてなブログに移行しました。

理由はいくつかあるんですが、もうちょっと「書く」ということに集中できるサービスを使いたいと思ったことが大きいです。

しかし移行したものの、ワードプレスと勝手の違う環境にカスタマイズをやっては挫折の繰り返しで全然記事を書かず‥‥‥

などと言いながら、ようやくある程度自分の考える形にブログが整ってきたかと思えるようになりました。

これまでとにかく「がっつりと気合入れて書く」をモットーにしてきましたが、2021年は少しだけ力を緩めて「書きたいことを楽しく書く」の精神でやりたいと思います。

さて、どうでもいい前置きはこれくらいで。

理由は不明ながら「ドラえもんズ」が、Twitterのトレンドに挙がっているのを発見。

ドラえもんズ‥‥‥ ドラえもんズか。好きだったんですよ、ドラえもんズ。

調べてたら、ドラえもんズが最初に映像に登場したのは1995年3月4日公開の映画「2112年 ドラえもん誕生」でしたね。

ドラえもんの劇場版「のび太の創世日記」と同時上映された作品でした。

この映画では各メンバーは顔見世程度で、そんなに出番は多くなかったんですがやっぱり映像で動いてるドラえもんズを見た時は興奮しましたよ。

実はドラえもんズを知ったきっかけがなんだったのかは記憶が曖昧です。

当時、自分は小学校一年生。コロコロコミックを買っていたので、多分そこで情報を得たんだと思います。衝撃的でしたよ。何がって‥‥‥

ドラえもんがたくさんいる!

本当にこれに尽きるんですよ。

だってそれまで一ミリも考えたことなかったんですよ。ドラえもんと同じ形のキャラクターが他にもいるなんて。

しかもそれが六人もいて、それぞれが違う国の個性を持っている。それにとてもワクワクしたのを覚えてます。

自分が幼少期を過ごしたのは1990年代前半。もうこの時期はドラえもんはパーマネントキャラクターとして不動の人気を誇っていました。

自分も第一話を見た訳じゃないのに、まるでずっと昔から見ていたかのようにドラえもんを楽しんでました。

それだけ自然に自分の生活の一部になっていたから、ドラえもんが一人しかいないって未来永劫変わらない決定事項みたいなものでした。

それが覆された瞬間。それがドラえもんズを知った時ですね。


友情伝説ザ・ドラえもんズ―3DOソフトまんが版 (ワンダーライフゲームコミックス)

当時、3DOってゲーム機がありました。「ウルトラマンパワード」の格闘ゲームが発売されたことで一部の人には知られてる(と思う)機種です。

それでドラえもんズのゲームが発売されました。

持ってはいなかったんですが、そのゲームの宣伝とドラえもんズの漫画が収録された本を買いまして読んでました。

今思うと、それを購入したって事実が自分がドラえもんズに惹かれていたことを示してますね。

何に惹かれたんだろう?

勿論キャラクターの魅力は大きいです。王ドラ、ドラ・ザ・キッド、ドラニコフ、ドラリーニョ、エル・マタドーラ、ドラメッド三世‥‥‥

この時期と言えば「機動武闘伝Gガンダム」で、世界のお国柄を反映した個性的なガンダムが登場してました。

ややもすると色物的に見られがちな、こうしたデザインやキャラクター。

でも、小さい子からするとこれが物凄くわかりやすい

このキャラがどんな特徴を持ったキャラなのか、いくらでも特徴が言えるんですよ。

さすがに小学生だった自分はキャラの名前も覚えてました。

でも例えば、小さい子が「あの角があって、力持ちで、赤いやつ」と言えばエル・マタドーラが思い浮かぶ。

各キャラに苦手な物が設定されてるなど、細かい部分までキャラクター付けがしっかりしていたのも良かったですね。

とにかくキャラクターが個性的で魅力的。ドラえもんが何人もいるだけで衝撃的だったのに、その上で各キャラの個性に魅了されました。

「もっとドラえもんズの活躍が見たい」

そう強く感じていた中で、ついに1996年3月2日に公開された「ドラミ&ドラえもんズ ロボット学校七不思議!?」。

面白かったですね! ようやく見たかった物を見れた感じがしました。

毎週金曜の夜7時に欠かさず見ていたドラえもんも、この頃はちょっとずつ離れ始めていた時期だったんですがそんな自分も引き込ませる力がありました。

割と、クラスのやんちゃな男子でもドラえもんズに関しては評判が良かった記憶があります。

この映画、ドラえもんの映画の中でも画期的だと思っているんです。

ご存知のように、ドラえもんの映画は多くの場合悪役が出てきて、それにのび太やドラえもんがどう立ち向かうかが見所になってます。

本作も基本的にはこの原則に沿ってるんですが、決定的に違うのが少年漫画的な「バトル物」の要素が加わっているということ。

ドラえもんズの各人が立ちはだかる敵に一対一で立ち向かい、最後には皆で勝利して平和な結末を迎える。

まるで「聖闘士星矢」の劇場版のような構成。

こうした展開は、キャラクターが普通の小学生であるいつものドラえもんじゃできないことですね。

悪役キャラとタイマンでバトルするしずかちゃんを想像すると‥‥‥ やっぱり違いますね。

「ドラえもんでもこういうことができる!」

本作とドラえもんズは、ドラえもんという作品の可能性をを大きく広げた画期的なコンテンツだったと思います。

そしてもう一つ。自分が何故ドラえもんズに惹かれて夢中になったのか。

それはドラえもんズによって「ドラえもん自身の物語」が描かれたからです。

これも当たり前の話ですが、「ドラえもん」という作品の主人公はのび太です。

だからそこで描かれる物語はドラえもんの話ではあるけど、軸はのび太なんですね。

それがあまりに自然に心の中にあったから疑問に思わなかったけど、誰でもどこかで「ドラえもん自身のことを見たい」って気持ちがあったのではないでしょうか。

自分はそうでした。

大好きなドラえもんにどんな過去があって、どんな友達がいて、その友達とどんな時間を過ごしているのか。

のび太達といるだけではわからない、ドラえもんの新しい一面を知れる。

だからドラえもんズに夢中になったんだと思います。

それから数年経つと完全にドラえもんから離れてしまい、いつの間にかいい年した大人になっていました。

でも映画のドラえもんがテレビで放送されると見ていて、やっぱりドラえもんとの付き合いはこれからも続くんだろうなと思います。

それでドラえもんズのことも忘れてはいなくて、大人になった今だからドラえもんズの新しい活躍を見たいという気持ちが年々強まってきました。

ドラえもんズのこと覚えている方が多くいるようで、それも嬉しいですね。

イギリスの「ドラロック・ホームズ」とかエジプトの「ドラホテップ5世」とか、勝手に空想で思い浮かんだりもするんですよ。

今、ドラえもんズを見て育った世代が一蹴してクリエーターとして活躍している。

そうした人達が、かって好きだったドラえもんズを今の子ども達と昔子どもだったファンのために作る。

面白くならないわけがないと思います。

歴史は繰り返す。社会情勢で東京オリンピックも開催の目途が目途が立たない現在。

だからこそ、世界のドラえもんが活躍するドラえもんズの復活を見たいなと強く思う次第。

メイドに出会ってなかったら『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』に正月から感動しなかっただろうね

すっかり更新頻度が落ちてしまった当ブログ。

いや、書きたい! 書きたいという気持ちはあるのだがその他もろもろが多すぎてなかなか書けず‥‥‥

そんなことを思っていたら、あっという間に2020年も終わり怒涛の勢いで2021年を迎えてしまった。

明けましておめでとうございます。

例に漏れず、新型コロナウイルスの影響で今年は帰省を控えた正月となった。

その間何をやっていたかと言えば、もっぱら撮り溜めしていた映画、アニメの消化。

休みの少ない仕事故、溜まりに溜まったその量は年末年始の休みですら消火できなかったので我ながら呆れてしまう。

それでもある程度消化し終わったのだが、さすがに連続で見続けるのはきつかった。

しかし、その中で逆に「連続して見続けたい」と思い一気見したアニメがあった。

ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

名前だけは聞いたことのあったラブライブ。しかし、実際にCDやアニメといった媒体に触れたことはなかった。

何故録画していたかと言えば純粋な興味からなのだが、これが「何故もっと早く見なかったのか!」と思うほど自分に刺さる作品だった。

 

 

本作を見るまで、ラブライブについて知ってることと言えば「ラブライブ!」と「ラブライブ!サンシャイン!!」のタイトルのみ。

そのため、私にとってはじめて触れたラブライブが「虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」となる。

そんなド素人の私でも、一話を見た時点で「はっは~ん、この十人の女の子達が最終的にグループを結成するのね」などと想像することができた。

しかし、本作はその予想の斜め上を行く展開を見せる。

本作のキャラクター達は「虹ヶ咲学園」という学校の同好会という形でアイドル活動を行う。

しかも、それはグループとしての活動ではなくそれぞれのキャラクターがソロで活動するというものだった。

そうした内容から、一話一話の展開はそれぞれのキャラクターの内面にスポットを当てたものになっている。

つまり、それぞれの女の子がそれぞれの抱える問題・課題に一話をかけて向かい合い、アイドル活動に意義を見出していく内容だった。

前のアニメを未見のため恐縮だが、一人一人が丁寧に取り上げられている作風のため十人もいるキャラクター全員に愛着を持てた。

最初は、絶対に全員の名前を覚えるなど不可能と思っていたにも関わらずである。

その内容も、例えば反発していた相手にいつの間にか同化していた『中須かすみ』の葛藤。

あるいは、変われたと思っていたのに実は変われていなかったのではと苦悩する『天王寺璃奈』の姿など、長く生きていれば男女問わず直面したことのある内容ばかりで共感が持てた。

そして、そうした問題を仲間との繋がりの中で克服し成長していく彼女たちの姿が実に爽やかで気持ちいいのだ。

映画や小説など媒体を問わず、「物語」というものは何かが変化していく過程を描く物と考えている。

その意味で、これ程見やすくしかも視聴後に明るい気持ちになれる作品が刺さらないわけがないのだ。

無論、作品として「う~ん」と思った点がないわけではない。

終盤、あるキャラがすれ違いからとったある行動は、あくまで個人的な感想だが「苦手な描写がきたな」思い視聴するのにやや躊躇してしまった。

とは言え、それが作品の全体的なバランスを崩すに至っていないのは、最後まで本作がキャラクターの成長を描き切ったからだと感じている。

これは作品の根本に関わることかもしれないが、本作は歌がメインのアニメだと思っていた。

しかし、ド素人が最初に見た時に感じたのは『歌』の要素はむしろ二の次でメインはあくまでも『ストーリー』だということだ。

これは、私のように普段音楽をあまり聴かない人間にとってはプラスに働いていた。

いや、決して歌がいらないとかそういう話ではない。

キャラクターが成長するドラマがあるからこそ、その成長の頂点=最高にテンションが上がる瞬間で披露される歌。

そういう構成だったから、逆に歌に聴き入ることができた。

そしてその成長の物語は、スクールアイドル達をサポートする『高咲侑』が最終回で自分の夢を見つける所で最高潮に達する。

そこまで視聴して、この物語は侑という一人の少女が自分の夢探す過程の物語であったことに気づかされる。

ここで、また個人的なことだがその侑の姿が自分に重なったのである。

何度か当ブログでも記事を書いているが、私は良くコンセプトカフェ、メイドカフェを利用している。

 

orangecatblog.com

 昨年、よく利用しているメイドカフェのキャストがアイドルユニットを組んだのでそのライブを観戦した。

感動した。その気持ちを、まだ彼女達を知らない人に少しでも伝わればと思い記事を書いた。

いささか臭い言い方になるが、彼女達の魅力や存在がより多くの人に知ってもらえることが自分の夢になったのだと感じている。

まるで高咲侑がスクールアイドル達と関わる中で自分の夢を見つけたように。

元々、バトル物のアニメは好きなんですが歌とかダンスとかそういう系のアニメってほとんど見ていなかった。

多分、メイドカフェに通っていなかったらラブライブも見ようとは思わなかった。

長く店に通っていると、一人一人のキャストに思入れが湧いてくる。

彼女達を応援したいと思うようになる。

 

今回、本作にここまでのめり込んだのもこれまでの人生での経験があったからだと思う。

作品との出会いは、これだから面白いと感じた2021年の正月だった。

『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』。是非一つの作品として、広くたくさんの方に見て欲しい作品。

改めて当ブログを見つけてくださった皆様。2021年もよろしくお願いいたします。

目下大変な状況は続きますが、皆様の一年が何卒喜びに満ち溢れた一年になりますように。

 

 

「劇場版鬼滅の刃無限列車編」感想(ネタバレ有)原作のエピソードを劇場版で観る意味

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こんにちは、管理人の侑芽です。

スタジオジブリの「もののけ姫」が公開された時、私はまだ小学生でした。

映画を観る予定はなかったのですが、たまたま映画館の近くを通りがかった時に今まで見たこともない人の列ができていた光景を今も覚えています。

当時私が映画館で見ていた映画というとドラえもんとかゴジラとかだったんですが、それでもそこまでの列を見た記憶はありません。

度々ニュースで取り上げられる、アニメ映画が社会現象を起こすということを身をもって感じた瞬間でした。

大人になると節約のために、レイトショーばかり観ていたのでどんな人気作でも然程人の多さを気にしたことはありませんでした。

しかし、2020年10月16日。この日だけは違いました。

家を出る前から目にするネットニュース。映画館が入っている駅に出入りする人たちの会話。券売機から館内までの道。

その全ての過程を、ある一本の映画が占めていました。

劇場版鬼滅の刃無限列車編。

本作についての詳しい説明はもはや不要でしょう。文句なく素晴らしい作品でした。

本作の感想を綴るにあたり「原作の一エピソードを劇場版として観ることの意味」をポイントととして、映画を鑑賞しました。

作品情報

タイトル劇場版鬼滅の刃無限列車編
上映日2020年10月6日
監督外崎春雄
脚本ufotable
配給東宝、アニプレックス
出演者花江夏樹、鬼頭明里、下野紘、松岡禎丞、平川大輔、日野聡 他

無限列車編とは

週刊少年ジャンプで2016年から2020年まで連載された漫画「鬼滅の刃」。

テレビアニメは原作コミックの第1巻から第6巻、及び第7巻の冒頭までをアニメ化し2019年に放送されました。

今回映画化された「無限列車編」はそのテレビアニメの直接の続きで、アニメの最終回直後から話がスタートします。

なお、原作コミックでは第7、8巻が無限列車編です。

テレビアニメと劇場版

多くの場合、完結していないテレビアニメの劇場版というとテレビの話の番外編的な作品が多いです。

例えば鬼滅の刃と同じく少年ジャンプで連載されていたドラゴンボール。

私の小さい頃は毎年映画が公開されていましたが、その内容は原作に沿って話が進むテレビアニメ版とは時系列の異なるパラレルワールドのお話でした。

そうした作りのメリットとしては、原作に縛られない映画だけの特別感を出せることです。

代表的な例が劇場版限定の敵キャラ、またはオリジナルキャラクターでしょう。

また、これは実写作品になりますが2000年から始まった平成ライダーシリーズ。

現在ではその劇場版は、テレビシリーズと連動した作りになっているものが多いです。しかし、初期の頃はテレビシリーズと異なる世界観で描かれた作品が多数ありました。

そうした作品では、テレビよりも先に仮面ライダーの最強形態が登場するなど映画ならではの話題性がありました。

対して無限列車編はどうか?

言うまでもなく原作の一エピソードである以上、無限列車編には劇場版ならではの特別な要素といったものは少ないです。

今作だけの炭治郎たちの強化アイテムなどもありませんし、煉獄杏寿郎やメインの敵である魘夢も既にテレビで登場済みのキャラクターです。

さらに言えば、この無限列車編の後もストーリーは続くので映画としては完結していてもお話としては全然終わっていません。

では、無限列車編はただテレビアニメを映画館で流しただけの作品なのでしょうか?

答えは勿論「否」です。

無限列車編は劇場の大スクリーンで観るに相応しいクオリティを持つ作品でした。

閉ざされた空間という舞台

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無限列車編の舞台は蒸気機関車の中。これは見方を変えれば巨大な密室・ダンジョンです。

古今東西、この「閉ざされた空間」という舞台は実に多くの映画で題材として扱われてきました。

鉄壁の刑務所からの脱走を描いたクリント・イーストウッド出演の「アルカトラズからの脱出(1979年)」。

蒸気機関車の客車で起こった殺人事件に探偵が挑む「オリエント急行殺人事件(1974年)」。

宇宙船の中で乗組員が一人また一人と怪物の餌食になっていくSF映画の代表作「エイリアン(1979年)」。

無限列車編においても「夢」という空間からの脱出と「機関車」という空間からの脱出という二重のサスペンスが描かれていました。

何故「閉ざされた空間」からの脱出が映画の題材として多く使用されるのか?

もちろん、それが映画に相応しい題材だからです。

創作物の題材というのは、それが展開される媒体で内容が決まることが多々あります。

小説なら小説の、映画なら映画の、テレビドラマならテレビドラマの決められたページや時間の中で描けるものが決まってくる。

閉ざされた空間からの脱出というのはスリルがとても大事になってきます。

もちろん、それを13話の話数を使ってやる手段もあるでしょう。しかし、仮にそれを見たとしてもあまりに時間が長いとやや緊迫感が欠けた感じになるのは容易に想像できます。

それに対して、上映時間内に話をまとめなければならない映画ではスピード感が極めて重大になってきます。

だからこそ、閉ざされた空間というのは映画で使われた時に魅力的な舞台になると私は考えます。

迫る鬼の攻撃、逃げ場のない空間、そこから抜け出すには鬼を倒すしかない。

このスリルに、機関車の上を駆け回るといったダイナミックな絵が加わる。さらに映画館ならではの音も加わる。

そうすることで、無限列車編はテレビシリーズ以上の迫力ある場面が満載の作品となっていました。

無限列車編は劇場版限定のイベントではなく、映画という媒体が持つ魅力に極めて忠実に作られた映画。

だからこそ劇場版として映画館で見る価値のある作品だと感じます。

鬼殺隊の活躍と描かれない魘夢の過去の意味

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鬼滅の刃の魅力として挙げられるのが悲しい過去を背負った鬼の存在。

無限列車編に登場する魘夢には、それが一切描かれません。これは原作自体がそのようになっていたためです。

最終選別の時の手鬼、那田蜘蛛山編の累などこれまでの鬼にはその過去が描かれていました。

魘夢にも設定上は人間の頃の人格がありますが、人間だった頃からかなり悪質な性格をしていたようです。

しかし、逆にそのことが無限列車編に映画としてのクオリティを与えていたと思います。

何故なら本作は炭治郎の、そして煉獄の物語だからです。

もし魘夢に悲しい過去があったら? 恐らくある程度の時間を使って魘夢の過去が描かれ、その時間だけ本作は魘夢の物語になっていたでしょう。

話数のあるテレビアニメなら、一話くらい鬼の過去に費やしてもいいかもしれません。

しかし、時間の限られた映画で観客の関心が炭治郎たちでなく魘夢に移ってしまっては問題です。

その後の猗窩座の登場もあるので、観客は煉獄に気持ちを持っていかなくてはなりません。

同情できる過去が描かれない鬼・魘夢。彼の存在あればこそ、閉ざされた空間からの脱出む含めて無限列車編は中弛みなく最後まで観れる作品となっていました。

これもまた、時間の限られた映画という題材ならではと思います。

猗窩座 盛り上がりの頂点

劇場版ならではのトピックスが少ない無限列車編。その中にあって「これぞ劇場版」といえる要素が猗窩座の登場でしょう。

十二鬼月・上弦の参という累や魘夢より遥かに格上の存在。敵でありながら、その強さと彼自身の壮絶な過去から高い人気を持つキャラクターですね。

猗窩座を演じるのが一体誰なのか‥‥‥ 公開直前まで秘密になっていたことも鑑賞への期待を高めていました。

公開前は神谷浩史さん、中村悠一さんなどファンの間で想像が膨らんでいました。

中でも多かった意見が「新世紀エヴァンゲリオン」の渚カヲル役などで有名な石田彰さん。

実際、私も漫画に脳内で声をあてた時に猗窩座は石田彰さんがしっくりきました。

猗窩座ももちろん原作に出てくるんですが、作中に登場する上弦の鬼の中で炭治郎たちと二度交戦するのは猗窩座だけです。

つまり二度見せ場があるので、今後の話がテレビアニメで展開される場合に映画のトピックスを担える鬼は猗窩座だけ。

猗窩座の存在により、無限列車編はテレビアニメの劇場版ならではの話題性を内包することができました。

炭治郎の物語としての無限列車編

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もう一つの劇場版ならではのトピックスが炎柱・煉獄杏寿郎の活躍です。

ご存知のように、煉獄は鬼殺隊の柱の中で最初の戦死者になります。だからこそ、本作は彼の過去から最期の瞬間までが描かれる煉獄が主役の話でもありました。

言うまでもなく本当の主役は炭治郎ですが、終盤の猗窩座との戦いに炭治郎は参戦出来ない。

これがもし無限列車編がテレビアニメで製作されていたら、恐らく複数話に渡って構成されるであろう猗窩座戦で炭治郎の存在感が薄れてしまいます。

しかし無限列車編は夢からの脱出を通して描かれる過去との決別と、煉獄の死を通して描かれる炭治郎の新たな決意の物語です。

魘夢も猗窩座も煉獄も、全ては炭治郎のためにあらねばなりませんでした。

無限列車編が最初から最後まで炭治郎の物語としてのテンポを失わずにすんだのも、映画という一本の作品としての構成ならではと思います。

時代に響く煉獄のメッセージ

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無限列車編の情報がはじめて出たのは、2019年のテレビアニメ版の最終回。

その時は2020年に日本を襲う暗い出来事を誰も予想できませんでした。

ですが、そうした時代だからこそ煉獄が命を懸けて伝える最後の言葉に涙した人も多いのではないでしょうか。

生活の変化の中で、それまでの自分が持っていたものと別れを告げなければならなかった方もおられると思います。

それは仕事だったり、生活の場所であったり。

まるで夢の中で家族との幸せから決別せねばならなかった炭治郎のように。

それでも、それを受け入れて生きていかなければならない。認めるのが辛い煉獄の死を受け入れた鬼殺隊の面々のように。

誰の人生であっても確実な安心などないと、誰もが突き付けられた今。

過酷な最期を迎えながら、炎のような心を失わず生きることへの真摯なメッセージを伝えた煉獄。

まったく偶発的なものではありますが、映画という話題性のあるコンテンツで今の時代に煉獄の姿が描かれたこと。

これこそ無限列車編が映画として公開された最大の意味だと、個人的には思います。

感想

劇場版にありがちなオリジナルキャラクターや要素を付け加えず、あくまで原作を元にして高クオリティの作品を目指された本作。

本当にスクリーンで観る「映画」に相応しい素晴らしい作品でした。

まるで刀鍛冶職人が研ぎ澄ました刀のように、映像・音楽・演技といった全てが洗練された映画です。

そして、鑑賞後に改めて感じたのは原作の持つ魅力。

例え先がわかっていても早くこの先が観たい、そう思える力強さに溢れた作品でした。

映画「バースデー・ワンダーランド」紹介と感想 アニメで巡る旅

こんにちは、管理人の侑芽です。

2020年は新型コロナウイルスの関係で、連休であってもなかなか出かけられない方も多いと思います。

そんな時だからこそ、映画や本を通して創作物の世界で旅をするのも一つの過ごし方。

「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!大人帝国の逆襲」で知られる原恵一監督が手掛けた映画「バースデー・ワンダーランド」はまさに旅の映画。

柏葉幸子さんの小説「地下室からのふしぎな旅」を原作とした異世界冒物です。

自分に自信のない主人公の少女・アカネが異世界・ワンダーランドを旅する中で自分の「勇気」を見つける物語。

舞台はアカネの誕生日の前日です。これは「誕生日は不思議なことが起こる日」という雰囲気を作品に与えています。

同時に、年齢を重ねること=旅の中でのアカネの成長という意味ですね。

大人になると誕生日にワクワクすることなんてあまりないですが(苦笑)、誰でも子どもの頃は誕生日が待ち遠しかったのではないでしょうか。

一年に一度の特別な日、何かかが起こりそうない日。子どもの頃のそういう空想が具現化したような映画です。

アカネとアカネの叔母のチィが旅する異世界。そこが本当に色鮮やかで綺麗なんですよ。

印象的にはゲーム「ロックマンDASH」の世界みたいな感じなんですが、どこまでも続く自然の美しさが気持ちいいですね。

悪人と思われていた人も実は…… という展開なので、悪人が登場しないのも安心して観られるポイントです。

「う~ん」と思った点としては、全体的に感じる物語の起伏の少なさですね。

色々な舞台が出てくるのは面白いんですが、そこで主人公のアカネの成長があまり感じられなかったです。

基本的にアカネはチィやワンダーランドの錬金術師・ヒポクラテスに同行するだけ。

ラストでアカネは勇気を出すんですが、そこに至るまでの「勇気を少しずつ出していく」みたいな過程が感じられなかったのが惜しかったです。

ワンダーランドは現実の世界の鏡写しのような世界ということで、映画を観てると「あれがここか」みたいに感じる部分があるんですよ。

そういう部分を探す楽しみ方もあります。

大人の視点で観るとやや厳しい部分もありますが、時には日常の忙しさを忘れて旅をしたくなった時はワンダーランドの美しさが心に染みると思います。

家の中にいてなかなか感じられなくなった風の優しさや水の美しさを、映画の中で感じるにはまさにピッタリの作品です。

ザ☆ウルトラマン最終回感想 

「私たちのことをなぜ最後まで隠さねばならなかったかわかってくれただろうね」

放送情報
タイトル:「ウルトラの星へ!!完結編 平和への勝利」
放送日:1980年3月26日
脚本:吉川惣司
登場怪獣:処刑怪獣マグダター


感想
ザ☆ウルトラマンも今話が最終回。

ヘラー軍団との決着が描かれるとともに、一年かけて描かれてきたヒカリとジョーニアスの秘密を隠さねばならなかった理由に答えが与えられ最後を締めくくるに相応しい話となっている。

原子分解されてしまう大賢者をただ見ていることしかできなかった科学警備隊。

辛くも脱出に成功する中で、マルメ達がヒカリがウルトラマンだと思っていたことを口にする。

「そんなことは問題じゃない」

「ウルトラマンに頼りすぎていた」

隊員たちをゴンドウキャップが諌める。

この言葉にもっとできることがあったのではないかと思い直す隊員たち。

科学警備隊はバラバラに散ってゲリラ戦でヘラー軍団に勝負をかける。

初代ウルトラマンから描かれてきた「ウルトラマンへの依存」というテーマ。

アニメということで触れていない方もいると思うが、このテーマはしっかりとザ☆ウルトラマンでも描かれている。

確かに、もしヒカリがジョーニアスに変身できていたとしたら大賢者の救出はできただろう。

しかし、最高会議の決定を押し切ってまでU40にやってきた科学警備隊の本当の自立には繋がらないのだ。

もしもこの場にいたのがゴンドウではなくアキヤマだったらどうだったか。

個人的な予想だが大賢者救出に関して最後までできることを探したのではないかと思う。

アキヤマより若いゴンドウだからこそ、ウルトラマンに依存する未熟な部分が自然に描けたのだと感じる。

そして始まる科学警備隊の戦い。

前話でも感じたことだが科学警備隊の面々は本当に強い。武器がなくなれば素手でヘラー軍団の兵士を圧倒している。

もしこのメンバー全員がウルトラマンに変身したとしたらとんでもないことになると思う。

別れの挨拶をかわす演出が泣ける。

前作のウルトラマンレオではMACが途中で全滅したのでこのような演出はできるものではなかった。

似たシチュエーションでは帰ってきたウルトラマンの最終回で単身MATアローで出撃する郷隊員がメンバーに最後の挨拶をするシーンがあった。

こういう場面があるだけで、内容に子ども騙しといった感じはなくなるのだと気づかせられる。

奮戦むなしく次々捕まる隊員たち。

そんな中ヒカリとゴンドウは防衛タワーに潜入する。

一方、エレクたちの援護に向かったジョーニアスは宇宙のヘラー艦隊を撃破していた。

一番重要な局面で活躍するのをヒカリにすることで彼のヒーロー性が保たれている。

これまではいざとなればジョーニアスの力があったが、今はそれがない。

こういう状況だからこそ、「自分たちにできること」という面が強調され最終回のテーマに深みが出ている。

防衛タワーの破壊に成功したがタワーから連絡してしまうヒカリ。

そこに間一髪ジョーニアスがヒカリと融合する。

人間としてできる最大限の努力をした時にウルトラマンがやってくる。

視覚的にも文字通りそれを体現した場面であり、ここから物語はどんどん盛り上がりをましていく。

捉えられた科学警備隊の前に出現する処刑怪獣マグダター。

ザ☆ウルトラマン最後の怪獣だ。

注目すべきはマグダターの出現シーン。

捉えられた科学警備隊のを見下ろすように地面からマグダターが出現する構図は怪獣の巨大さを見事に表現している。

アニメである故に実写ほどの迫力がないといわれるザ☆ウルトラマンだが、逆にアニメだからこそ怪獣と人間が同時に映る場面に違和感がない。

技術的にも、まだまだ当時こういう場面を実写でやろうとしたら違和感は出てしまっただろう。

アニメであったとしても、見せ方次第で十分怪獣の迫力を出すことはできるのだ。

気絶から目覚めたヒカリはジョーニアスに変身。

遂にヒカリの真実を目撃する科学警備隊。

マルメの顔の嬉しそうな顔が印象的だ。

ピグによって助けられる科学警備隊。ピグにもきちんと活躍の場を設けてあって嬉しい演出。

マグダターに苦戦するジョーニアスを助けにエレクとロトが現れる。

最終回に登場する怪獣にしては残念ながらあまり個性を感じられないマグダターだが、ジョーニアスが単身では負けそうになることで辛うじて存在感が出ている。

追いつめられるヘラーだが、大賢者とウルトラマインドは自分の手中にあると巨大要塞ヘラーシティを浮上させる。

逃亡を図るヘラーだが、突入してきたジョーニアスのパンチに吹き飛ばされる。

アミアも救出され、彼女は大賢者の復活を。ジョーニアスはウルトラマインドの奪還を行う。

エレク、ロトに続いてアミアにもちゃんと見せ場が作られている。

改めて見直して気づいたのだが、本当にキャラクター全てに見せ場が用意されているため飾り物になっている人物が一人もいない。見事な構成だ。

大賢者は復活しヘラーはヘラーシティの爆発に巻き込まれて死亡。ついに長かった戦いに終止符が打たれる。

大賢者の演説を聞くウルトラ人と科学警備隊のメンバー。

そしてついにジョーニアスが人間体でヒカリと対面する。

その顔立ちは強さと優しさに満ち溢れた顔立ちだ。

一心同体でありながらこれまで決して顔を合わせることができなかった二人の握手の場面は一年間の放送を飾るに相応しい名場面。

かってこれほどまでに主人公とウルトラマンの繋がりを感動的に描いた作品はなかった。

近いところではゼットンに破れた初代ウルトラマンがハヤタを生き永らえさせてほしいとゾフィーに願った場面がある。

ウルトラマンとハヤタの繋がりを感じる場面だが、今作で描かれたヒカリとジョーニアスの描写はそこから一歩踏み込んだものになっている。

ウルトラ人の円盤で地球に帰還する科学警備隊。

平和な様子をもう一度見るためにジョーニアスとアミアも地球を訪れる。

ヒカリと分離し、自分だけの目で地球を見つめるジョーニアス。

地球を美しいとジョーニアスがいってくれるが、地球人にはジョーニアスが命をかけて守り賞賛してくれたこの星を守っていく責任がある。

ザ☆ウルトラマンの物語はヒカリの物語であると同時に、地球人がジョーニアスから試される物語でもあった。

自分たちのことを何故秘密にしなければならなかったかヒカリに尋ねるジョーニアス。

ヒカリは「誰もが自分の力を信じるべきだから」と答える。

ここに、ザ☆ウルトラマンのテーマは全て描かれた。

同時にこの場面は、ヒカリとジョーニアスが真に対等の立場になった場面といえるだろう。

そしてもう一つのラスト、ヒカリとアミアの別れ。

ムツミ隊員に幸せにと言って去ってゆくアミア。

ヒカリとムツミ隊員は一緒に過ごす場面も多かった。

二人が結ばれるかはわからないが、アミアの思いやりに感動する場面だ。

過去にウルトラセブンでは主人公がウルトラ戦士だったが、今作ではその逆のパターン。

アミアとヒカリの恋は丁寧に描かれてきただけに、星や種族の垣根を越えて愛が芽生える描写が作品に気高さを与えている。

もう二度と会えないのかというヒカリの問いに宇宙に危機が訪れた時に戻って来るというジョーニアス。

例えヘラー軍団が滅んだ後も宇宙から脅威が消えたわけではないし、地球を狙う侵略者も後を絶たないだろう。

戦いはこれからも続いていく。

再会へのかすかな希望を抱かせる言葉はウルトラマンの世界観だからこそ包括できる言葉だ。

エンディングテーマ「愛の勇者たち」が流れる中去っていくジョーニアスとアミア。

次にウルトラマンになるのは君かもしれないというナレーションで物語は締められる。

あらゆるテーマ、人物描写を過不足なく描き出し作品に一貫性を持たせた最終回だった。

個人的な希望をいえば、これまで散々ヒカリを非難してきたマルメがヒカリに謝罪する場面を入れてほしかった。

ウルトラマンが現れた時のマルメの嬉しそうな顔から、ヒカリへのわだかまりが溶けたことを信じたい。

「ザ☆ウルトラマン」49話感想 

「お前なんだろ!え!そうなんだろ!?」

放送情報
タイトル:「ウルトラの星へ!! 第3部 U(ウルトラ)艦隊大激戦」
放送日:1980年3月19日
脚本:吉川惣司

感想

亜空間を抜けてU40に向かうウルトラ艦隊。

ヒカリはジョーニアスに自分たちの秘密を話したいと語るがジョーニアスはその時は近いと語る。

最終章だけあってヒカリも焦っているように見えるが、今までの責められてる様子を見れば気持ちは分かる。

また、これまでのように単体の怪獣や侵略者たちが相手でない状況では秘密を隠し通すのも限界だろう。

ヒカリがウルトラマンではないかとトベに話すマルメ。ウルトリアのコンピューターでこれまでのヒカリの行動を解析しヒカリとウルトラマンが同一人物である可能性をトベは割り出す。

ウルトラ人の船がヒカリが必死に守っている秘密を暴いてしまうのはどうかと思うが、どうせ違うと答えてもマルメたちの疑いは今更消えないだろう。

U40への途中で宇宙空間に追放されているウルトラ人を回収するウルトリア。

ウルトラ人は仮死状態になれるから心配ないというエレクとロトだが、実は彼らの身体に爆弾を埋め込んだヘラーの罠だった。

かなりショッキングな描写に胸が苦しくなる。今まで地球人が侵略者の犠牲になることはあっても、大量のウルトラ人が犠牲になる描写は過去の作品には無かった。

バデル族との戦いでも相当の犠牲者は出ているはずだが、直接的な死を見せられるとやはり重みが違う。

人間爆弾の爆発を機にはじまる総力戦。

ここに来て本格的にヘラーがその姿を見せる。

「ウルトラの戦士は一人で戦艦10隻に相当する」と語るヘラー。

1人のウルトラ戦士が地球の科学力を超えた戦艦のさらに10隻分の力を持っているとは、ヘラーが最強のジョーニアスを警戒するのもよくわかる。

考えてみれば、ヘラーはこれだけカリスマ性があるのだからかってのウルトラ戦士の一人だったのではないだろうか。

征服欲も力をもって戦っていく中で芽生えたものかもしれないが、ヘラーの変身体があればどんな姿か気になる。体に黒色が入るのだろうか。

U40の間近に迫るウルトリア。しかしヘラーがウルトラマインドを使って攻撃してくる。

被弾するウルトリアだがそれを逆手にとってU40への潜入に成功する。

バデル族の時もそうだがウルトラマインドはよく盗まれるな。

ヘラーはウルトラ人だったから取り扱い方を知っているとしても、誰にも利用されないように厳しいセキュリティを付けられないものだろうか。

まあ、U40に侵攻してこようなんて輩は十中八九ウルトラマインドが目的だろうからどれだけセキュリティを上げてもぶち破って来るのかもしれないが……

U40に不時着し爆発してしまうウルトリア。

流石のウルトリアも一隻ではヘラー軍団には対抗できなかったが、ウルトリア以上に強い物が何であるかがこの次の最終話で描かれることになる。

エレクたちのピンチにヒカリと一時分離するジョーニアス。

「私に頼るな」と言い放つジョーニアスには随分冷たい印象がある。

親玉のヘラーを打ち取ったほうが早いと思うのだが、この判断をどう考えるか。

もちろん、エレクたちが全滅する可能性を恐れたこともあるだろう。

だがジョーニアスはヒカリをはじめとした科学警備隊に自分への依存心があることを見抜いていたのだろう。

ここで自分が手を貸せば科学警備隊は依存心から抜けられない。それでは例え勝ったとしても本当の意味で彼らの勝利にはなりえない。

U40が全滅するかどうかの瀬戸際だが、それだけジョーニアスは科学警備隊を、もっといえば地球人を信じようとしてくれたのではないだろうか。

アミアと大賢者救出に向かう科学警備隊。

これがヘラー軍団の兵士相手に無双してとにかく強い。白兵戦なら歴代チームの中でトップではないだろうか。

大賢者を助けたければジョーニアスが誰か白状しろと迫るヘラー。

皆がヒカリを見つめる中ついにマルメがヒカリに詰め寄る。だが勿論変身することはできない。

アミアの奮戦むなしく原子分解されてしまう大賢者。

絶望に沈むヒカリで幕を閉じる。

シチュエーション的にジョーニアスに頼むしかない状況なので科学警備隊に落ち度はないようにも見える。

ただ、結局指を咥えて見ていることしかしなかったことが問題だったのだろう。

この回の絵コンテは機動戦士ガンダムを終えた富野由悠季監督が手掛けている。

人間爆弾の描写にザンボット3を思い浮かべた人も多いだろう。

後にも先にも富野監督が携わったウルトラマンを見れる機会は本作だけだ。

『ザ☆ウルトラマン』第48話感想 

 「お前その姿でどうやってあのガスの中を来たんだ?」

放送情報
タイトル:「ウルトラの星へ!! 第2部 前線基地撃滅」
放送日:1980年3月12日
脚本:吉川惣司

感想
土星の衛星、タイターン基地に攻撃を仕掛けようとする科学警備隊。

しかし、深い霧に包まれたタイターン基地への攻撃は難しい。

そこでアミアが基地に潜入する作戦を立てる。

そのパートナーに選ばれたのはヒカリ。

ゴンドウの意図が明白な組み合わせだ。

腹を立てたマルメ隊員がスペースバーディーに忍び込む。

はっきり言って、ヒカリの謎の行動を突き止めたいという行動理由は身勝手すぎる。

基本悪い人ではないのだがトラブルメーカーだ。

ヒカリと出撃できることが嬉しいアミアの笑顔が本当に可愛い。

何故自分が選ばれたのかを疑問に思うヒカリ。

アミアはゴンドウがヒカリの秘密に気づいたのかもと口にする。

正解だが、作戦の成功を握る大事な人事なので、単にゴンドウも好奇心から選んだのではない。

ヘラー軍団の基地まで変身して向かう二人。

変身をこういう目的のために使う描写をあっさりできるのもアニメの強みだ。

着陸時の気絶から目覚めて一瞬で見つかるマルメ。

そうとは気づかず基地に潜入するヒカリとアミア。

ウルトラマンがエレベーターに乗る絵もこれ以前の話で描かれたとはいえ、やはり新鮮だ。

途中で基地内で待機する合成怪獣ヘラ・ウマーヤ登場。

しかし合成とは何を混ぜて作った怪獣だろうか。

ヘラー軍団に見つかる二人だがマルメに助けられる。

「助かりました」と責めるでもなく礼を言うヒカリ。人間が出来ている。

宇宙服を着っぱなしのマルメに基地内は空気があることを伝えるヒカリ。

普通の隊員服姿のヒカリを見て、マルメは不思議に思う。

巨大な穴に追いつめられる三人。目の前にヘラ・ウマーヤが出現。

恐怖で銃を構えるマルメを怪獣を刺激しないように止めるヒカリ。

しかし誤ってマルメの銃がヒカリを傷つけ穴に落としてしまう。

おい、大問題だぞこれは。

ヒカリはウルトラマンに変身し難を逃れ、ヘラ・ウマーヤと対峙。

マルメとアミアは捕らえられヘラー艦隊の出撃が間近に迫る。

ウルトラマンも肩が不調で力が出せない。

その様子を見たマルメはもしやと思うが、少しはヒカリのことを気がけてやって欲しい。

ウルトラマンの光線で基地の場所を知るウルトリア。

そこにエレクからの連絡が入る。ウルトラの艦隊は土星の環の中に隠れていた。

基地への総攻撃の中、ジョーニアスの加勢に入るエレクとロト。ジョーニアスはアミアとマルメの救出に向かう。

ヘラ・ウマーヤの出番はここまで。エレクとロトに倒されたことは明らかだが、ウルトラマンの番組なのだから倒すシーンは入れて欲しかった。

マルメは助かったがアミアはU40に連れ去られてしまう。

潔く敗北を認める基地司令ロイガー。悪に堕ちたとはいえこの潔さは流石ウルトラ人といったところか。

戦闘が終わりウルトリアに帰還したヒカリとマルメ。

「今回は忘れてやるが二度と勝手なことをするな」とマルメに釘を刺すゴンドウ。

マルメの行動は物凄い命令違反だと思うのだが…… 今はそんなことに拘っている場合でもないのだろう。

しかし、マルメからヒカリへの謝罪もないのは見ていてきつい。

ウルトラの戦士達との対面を経てU40に向かう科学警備隊。

いよいよ防衛チームがウルトラの星に乗り込む。

よく語られるようにザ☆ウルトラマンの魅力は地球外まで話を広げたスケール感だ。

それを主人公だけの話にせず、科学警備隊の話にまで広げたことに最終章の意義がある。

それにしても、マルメのキャラクターもアニメだから描けたものだ。

帰ってきたウルトラマンの岸田隊員も、ウルトラマンAの山中隊員も最初は郷秀樹や北斗星司に厳しかったが最終的に良き理解者となっている。

マルメを実写の俳優がやっていたら、その俳優の顔立ちや雰囲気にマルメのイメージが引きずられてしまったかもしれない。

マルメが最後までヒカリの批判者であり続けられたのはそういう俳優のイメージから解放されているからだろう。

憎まれ役かもしれないが、マルメもまた今までのシリーズにいなかった挑戦的なキャラクターだ。