ネコはミカンを片手に夜明けを待つ

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短編映画「路地裏のコスモス」感想

福岡市に住んで10年以上になる。よくいわれることだが福岡は程よい都会であり、暮らしていくことに関しては申し分ない環境だ。

もちろん不便に感じる部分もあるが、オタクが楽しめるイベントも豊富で2023年も色々と楽しませてもらった。

そんな福岡市で、昨年初めてその存在を知ったイベントが「48 Hour Film Project」である。

48時間で一本の短編映画を完成させるというこのいい意味でぶっ飛んだ映画祭は、日本を含め世界各国で開催され選ばれた作品にはカンヌ映画祭で上映するチャンスが与えられる。

前置きが長くなったが、今回紹介する短編映画「路地裏のコスモス」はこの映画祭で知った小田憲和(おだのりかず)監督による作品だ。

 

本作の主題は同性愛であるが、テーマとなっていたのは他人のあり方を受け入れられない人間の業だと感じた。

主人公の女性は人気インフルエンサーであり同性の恋人がいる。その関係を隠したまま幸せな生活を送る二人だったが、ある出来事をきっかけに主人公は重大な決断を迫られることになる。

 

本作を含めまだまだ監督の作品を観た数が少ない上で書くのは非常に恐縮であるが、小田監督の作品では、作中で日常とは違う特別な環境に置かれる主人公の姿が描かれる。

そうした状況に向き合った時に、主人公は初めてそれまで気づかなかった自身の気持ちや周囲の人間の隠された姿に気づくことになるのだ。

 

「路地裏のコスモス」もこのシチュエーションの上に成り立っている。

そしてまず書き記しておきたいのは、こうした作りのお陰で映画自体がとてもわかりやすいものになっていたということだ。

物語というのは突き詰めると「行って帰ってくるということ」だ。

もちろん全ての物語がそれに当てはまるわけではないが、少なくともこのシチュエーションがあることで短編とはいえ物語に起伏が生まれ作品としてまとまったものになっていた。

内容に目をやると、前半で主人公の日常描写が丁寧に描かれることで後にそれが崩れていく展開の悲壮さを際立たせている。

主題については明確な答えや結論があるわけではなく、まして約20分の短編映画の中ではそれについて描き切ることはとても難しい。

一方でテーマと感じた部分に関しては、自分と他人のあり方を受け入れていこうとする主人公と、そんな主人公の希望を打ち砕く無慈悲な声との対比が描かれることで人間の業や世界の歪みが上手く描けていたと感じた。

 

映像的にも考えられた構成が見られ面白い。

真昼のコスモス畑で幸せそうに笑う姿と夜の無機質な都会で涙を流す主人公の場面では、光と闇によって心情を視覚的に伝るという映像の手法が味わえる。

そしてタイトルにもあるコスモスという花の美しさと儚さが、主人公の幸せと重なることでその尊さと、それがやがて失われていく悲劇性を強調していた。

 

繰り返しになるが本作は何かに対しての明確な結論や答えが描かれている作品ではない。しいていうなら、ただ人間がこの歪な世界で生きていることを描いた作品だ。尊いことも愚かなことも含めて。

本作は上映会で鑑賞したが、上映後に舞台挨拶があった。その中で印象に残ったのは小田監督の「映画はエンターテインメント」という言葉だ。この考えには大いに賛同である。

一方で、エンターテインメントが果たすべき役割も確実に存在すると考えている。

自分にとってエンターテインメントとは「楽しい」という気持ちを持てる体験だ。

個人的なことではあるが、最近「ゴジラ-1.0」と「窓ぎわのトットちゃん」という映画を観た。どちらも楽しめた一方で、戦争の悲惨さや恐怖を描いていた。

決して忘れてはならない記憶を作品という形にして残していく役割がエンターテインメントにある。戦争だけではなく、社会が抱える問題も含めてだ。

そして極論と思われるかもしれないが、今を生きる者にはそれを見るべき責任があると考えている。平和な世界に生きる者の責任として。

 

「路地裏のコスモス」にもそうした問題提起が描かれていた。しかし悲壮さだけでなく、人間の温もりも確実に描かれている。それは恋愛感情だけでなく、人が人を思う気持ちそのものだ。

さまざまな要素がまとまりを見せた「路地裏のコスモス」であるが、こうした作品を完成させた小田監督が次にどんな人間ドラマを描くのか。

それを楽しみに待つとともに、本作が何らかの形でより多くの人の目に触れる機会に恵まれることを願いたい。