ネコはミカンを片手に夜明けを待つ

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舞台感想 劇団テンペスト藍色企画第2弾「どうしようもない」

福岡で舞台を観始めた頃は好きな女優を追いかけることばかり考えていた。それは今も変わってはいない。

好きな役者も増え、その人たちに会いに行くことは楽しみではあるのだが舞台を観に行く生活も3年に差し掛かると気持ちの方も落ち着いてくる。

ミーハーな気分から少しだけ進んで、以前よりも舞台の魅力や面白さとは何なのかを考えながら観劇するようになった。

 

舞台の魅力の一つは「感情を思い出させてくれること」である。少なくとも自分はそう思っている。

 

大人になって日常生活を送っていると感情を忘れることを覚えていく。辛いことや理不尽な目にあっても、怒ったり悲しんだりするのではなく関わらない、反応しないことがデフォルトになっていく。

それは確かに自分の心を守るために効果のあることだが、人が本来持つ自然な感情を知らず知らず忘れていく一面もあった。

人間が文学や芸術を生み出したのは人間らしい心を忘れないようにするため・・・・・・ 案外そんな考えも大げさではないと思う。

 

2024年最初の舞台観劇となった劇団テンペスト藍色企画第二弾「どうしようもない」は、まさに感情がどういうものだったのかを思い出させてくれる作品だった。

あらすじ

母親が出ていって二十年。父親が死んで十三年。人間として見られなくなって三年。許した長女。許せなかった次女。帰ってきた長男。舞台は2014年。世間では他人の目や声への注目が集まり出した時代。父親の13回忌を終えた沙耶香と莉子。沙耶香は区切りをつけるため実家をなくそうという話を持ち掛ける。そんなとき、10年前に家を出た長男拓斗が帰ってきて・・・

引用:「どうしようもない」パンフレット

甘棠館show劇場で上演後された本作は、主に主人公である村山家の一室で話が進んでいく。舞台には中央にテーブル、それを囲むように椅子、そして沙耶香が描いたという設定の絵が配置されていた。 

 

村山家の三兄妹の背景は重い。

父親から暴力を受けて育ち、母は出ていき不在という環境の中で長男の拓斗は暴力団の構成員となる。その影響で沙耶香と莉子は陽のあたる人生を歩めていない。

拓斗は組織を抜け家に戻るが、沙耶香は受け入れようとするが莉子は拓斗を拒絶する。拓斗は二人を家族と思っているが、同時に組織でともに過ごした兄弟分のことも家族と思っている。

ただ普通に生きていきたいと願う兄妹たちだったが、世間の「どうしようもない」視線はそんな願いさえ踏みにじっていく。

 

最初に感情のことについて書いたが、本作の登場人物たちはとにかく声を荒げて怒りや悲しみを訴える。

そうした人物の造形に苦手意識を持つ人もいるだろう。さらに感情の起伏が激しいということは、必然的にその時心で思っている全てを台詞にするということでもあり、結果として台詞の多くが説明台詞になるという一面もある。

だが一方で、言葉にしなければ伝わらないこともこの世界には存在する。

 

「どうしようもない」の魅力はまさにそこなのだ。

 

作中で特に悲痛な叫びを上げていたのは田中文萌演じる莉子である。

拓斗を許そうとする沙耶香に代わって、莉子はこれでもかというほど拓斗に憎しみをぶつける。

もちろん台詞を抑え、表情や仕草で観客に行間を読ませることも「表現」ではあるだろう。しかし声を張り上げていてもそれがただの大声に終わらず、観客に感情を感じさせてくれることもまた表現だ。

 

莉子だけでなく、他の登場人物も理不尽な状況に自身の感情を叫び続ける。

まるで観客の感情移入を拒むようなその姿だが、同時に感情が確かに伝わってきたのはひとえに役者陣の演技によるものである。

そしてそれを観た時に、自分の中でいつの間にか抑え込んでいた心を思い出したのだ。

 

人間とはこんな風に怒り、人間とはこんな風に悲しむ。

 

映画やアニメ、漫画でも登場人物の感情を見ることはよくある。というより、コンテンツが多様化した今それに触れずに生きることは不可能だ。

だがスクリーンやスマホといった仕切りがない分、舞台ではより強くそれが伝わってくる。人間の生の感情を伝える「どうしようもない」は悲惨な話でありながらも、舞台の魅力に満ちあふれていたと思う。

 

役者の演技が良かった一方で惜しい部分もある。終盤になるにしたがって、登場人物の行動原理が分かりづらくなるのだ。

ようやく再生への光が見えてきた兄妹たちだったが、拓斗が帰ってきたという記事が世に出たことで再び世間からの好奇の目にさらされてしまう。

しかもその情報の出どころは、拓斗不在の間に村山家を援助していた刑事と拓斗が所属していた組織との交流もあった情報屋によるものだった。

それにより再び気持ちを引き裂かれた沙耶香は、拓斗が慕っていた組織の兄貴分を刺してしまう。

 

観劇していてどうにもこの展開が腑に落ちなかった。兄貴分は拓斗のことを思いやる人物として描かれている。

そんな彼を沙耶香が刺すことも「どうしようもないこと」の悲惨さの一端だったのかもしれないが、沙耶香と兄貴分の間にはほとんど交流がないのだ。

沙耶香にとっては組織さえなければという気持ちだったのかもしれないが、それならもっと両者の間にドラマが必要だったと感じる。

 

他にも記事が世に出たのは情報屋のせいなのだが、そこには明確に人の悪意が存在している。情報屋には情報屋なりの行動原理があったことを想像させる場面もあるのだが、彼さえいなければ兄妹は平和に暮らせていたと思うのだ。

例えば再出発した拓斗が懸命に働き人々からの信頼を得るが、ある時過去がばれ人々から阻害されその上で悪意の噂が広がる・・・・・・ といった話でもよかったのではとないか。

誰か特定の人物の悪意ではなくふとした出来事の連鎖、個人的にはそういう追い詰められ方だとより強く「どうしようもない」悲壮さが伝わってきたように思う。

 

最終的に物語は、互いの気持ちを通い合わせた兄妹たちが自ら命を絶つという結末をむかえる。これをハッピーエンドと取るかバッドエンドと取るかは観客それぞれの人生観によるだろう。

 

本作は爽やかな結末とならないことで観客に宿題を残していった。

こういう終わり方は嫌いではない。悲惨なラストは芸術性があるという安易な考えは言語道断だが、要はそこに至るまでのドラマがしっかりと描けていればいいのだ。

 

時系列がやや掴みにくいことや終盤の展開に思うことはあるものの、三兄妹のドラマとして本作は最後まで一貫性を保っていた。

だから苦い終わり方であっても、結末としてはこれ以外はない結末だったと思う。散漫にならずしっかりとまとまっていた。

 

それにしても「どうしようもない」というワード一つからよくこれだけの物語が作れたと思う。

本作を一言で言い表すならこれ以外の言葉はない。

どうしようもない状況を作るだけならコメディでも恋愛でもさまざまな選択肢はあったと思う。その中で重いテーマを選んだことに関しては、脚本と演出を務めた上野直人の明確な意思を感じた。

 

orangecatblog.com

藍色企画の第1弾である「体温」の時も感じたが、彼が書いた作品からははっきりと彼の「色」が見て取れる。

福岡という小さな街で、しかも上演される舞台のほんの一部しか観劇していない身だがそれでも他の劇団にはない味わいが藍色企画の作品にはある。

 

恐らく作品というものは人間の成長と同時に成長していく。またいつか彼の作品を観れるなら、次はどのような人間の姿が描かれるのか。

ひとまずはそれを楽しみに待ちたい。

最後に余談を一つ。

本作で莉子を演じた田中文萌だが、2024年は忍者としてタイでパフォーマンスを披露することが決まっている。

どうしようもないで見せた感情の表現。それとはまた違う形にはなるが、彼女の持つ表現力を遠い異国の人たちにも見せてきて欲しいと思っている。

同時に世界で活躍する日本人が福岡にもいること。

最底辺のブロガーが書くのは分不相応かもしれないが、この記事が少しでもそのことを世に知らせる手助けとなれば幸いである。