ネコはミカンを片手に夜明けを待つ

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夢の続き「仮面ライダー555 20th パラダイス・リゲインド」感想

 

パラダイス・リゲインド鑑賞前の心情

「仮面ライダークウガ」から始まる平成ライダーシリーズの中で「仮面ライダー555」はリアルタイムで見ていない。理由はこの時期に仮面ライダーを離れたいと思っていたからだ。

クウガが始まったと同時に私は中学生になったが、リアリティを重視したクウガ、アギト、龍騎の作風はまさに思春期真っ只中の男子の心を鷲掴みにするものだった。

しかし昭和ライダーをビデオで繰り返し見ていた私は、龍騎にハマってはいたもののライダー同士が戦う、悪人がライダーに変身するという作風に「これは仮面ライダーではない」とも感じていた。

 

強く否定はしないものの、何かが違うと感じたモヤモヤ。その頃は今と違って仮面ライダーシリーズも必ず次の作品があるとは確約されていなかった時代。

555の次回予告が流れた時に「あ、次もやるんだ」と思ったが、もう見ようとは思わなかった。

 

結局「仮面ライダー剣」の中盤から再び仮面ライダーに戻ってくることになるのだが、こういうわけで555をリアタイしていないため作品に強い想い出はない。

しかし剣が放送していた頃、再びライダー熱が過熱した私はビデオレンタルで555を一気見した。その時からすればまだまだ直近の作品である。

風の噂でどろどろした作風とは聞いていたが、想像以上に目をそむけたくなる場面もあった。もうやめてくれと心の中で叫んだ展開もあった。

しかし不思議なことに、それでも早く次が見たいという気持ちが溢れてもいた。

誰が誰か一目でわかる登場人物の個性、主人公である乾巧の熱さ。

それらは放送中の剣に負けず劣らずの魅力を放っていた。

 

そうして555を見た時から20年になろうとしている。

「仮面ライダー555 20th パラダイス・リゲインド」の情報を聞いた時は驚いた。さらに脚本が井上敏樹であると知った時はさらに驚いた。

 

いや、確かに555の脚本を執筆するとしたら彼をおいて他にはいない。仮面ライダー555の全話を手掛けた脚本家。登場人物の親であり、555という作品の世界の創造主。仮面ライダー555にとっては神というべき存在である。

 

パラダイス・リゲインドはテレビシリーズの正式な続編だという。

つまり作品の内容がどういう形であったとしても、本作は紛れもなくテレビシリーズの未来の話なのだ。

ファンなら誰もが想像したであろう最終回のその後・・・ それに明確な答えが与えられようとしている。しかもテレビシリーズと同じ脚本家の手で。

脚本家が違うなら作品の内容が望まないものであったなら「テレビと書いた人が違うから」と納得もできよう。

しかしパラダイス・リゲインドに関してはその言い訳も通用しない。

 

色々と謎は残るものの、形としてはきれいに終わったテレビシリーズの仮面ライダー555。最終回の終わり方は個人的には好きだった。恐らくそういう人は少なくはないだろう。だからこそ、555は今でも続編が作られるほど支持を集めている。

パラダイス・リゲインドの公開によってあのきれいな最終回が守られるのか、それとも壊されるのか。一種の覚悟を持って映画館に足を運んだ。

パラダイス・リゲインド感想

クオリティの高いお祭り映画であり、続編映画としても及第点である。

 

これが本作に対する私の評価だ。

乾巧をはじめ園田真理、海堂直也などお馴染みの登場人物たちはキャラクターのブレがなく、間違いなく「あの頃の彼ら」であることが感じられた。

草加雅人、北崎といったキャラクターの変化もきちんと理由あってのものであったし、菊池条太郎をはじめヒサオ、コウタ、ケイといった新キャラクターたちも555の世界観に違和感なく溶け込んでいた。

 

お祭り映画と書いたが、こう聞くと首をかしげる方もいるかもしれない。

ところどころギャグ描写はあるものの、物語の本質は極めてシリアスだ。テレビシリーズさながらの、時にはそれ以上の残酷な場面や展開もある。

しかし本作には、それ以上にテレビシリーズを見てきたファンを熱くさせる展開が待ち構えている。

最後の戦いに巧が変身するのが「あれ」だったのはファンなら誰もが心を熱くさせられただろう。

細かい理屈さえ主人公のパワーで吹き飛ばしていくような勢い。

テレビシリーズや劇場版「パラダイス・ロスト」で見せた555の逆境から立ち上がる力強さ。

20年を経たこの2024年の時代に、当時リアルタイムで555を見ていたであろう人々が感じた熱さを自分も体験できたことが嬉しかった。

 

何よりパラダイス・リゲインドでは巧と真理の関係性に決着がつけられている。

 

仮面ライダー555のテレビシリーズは乾巧と木場勇治の物語であった。

時に戦い、時に和解し、別々の道を歩み再び対立しながらも最後にはわかり合えた二人の男。その二人の関係性に決着をつけたのがテレビシリーズの最終回である。

 

木場がライバルや友人といった外の立ち位置から巧を支えた存在なら、真理は仲間という内側の立ち位置から巧を支えた存在であった。

巧と真理の関係性については絆が深まっていく過程はあれど、テレビシリーズでは明確な着地点は描かれなかった。

パラダイス・リゲインドではいよいよそれが描かれることになるのだが、個人的には非常に納得ができるものであった。

 

恐らくパラダイス・リゲインドの中でも一番賛否が分かれるであろう場面。

しかしながら、この場面こそがテレビシリーズから紡がれてきた二人の絆が真の意味で結ばれた瞬間だと感じた。

同時にこの場面には当時555を視聴し、20年を経て成長した子どもたちへのメッセージも込められていると考えている。

 

それは「愛」が持つ力。

 

555を見ていた当時の子どもたちも現在では家庭を持つ人もいるだろう。そうでなくても、好きな子や気になる子がいるという人もいるかもしれない。

子どもの頃は、変身後の555の格好良さに憧れていたという人も多いだろう。

そうした子どもたちに向けて本作の脚本を手掛けた井上敏樹はまるで、力強く肩を叩くように骨太のメッセージを残してくれた。

誰かを愛するということ、恐れずに相手と向き合い信じることが苦しみを越える強い力を生むのだと。

 

井上脚本は一見するとヒーロー物としては変化球に見えるが、実際は王道的な物語であるという意見がある。

なぜ変化球に見えるかといえば、主人公やその仲間たちの人間としてだらしない部分や闇を抱えた部分が描かれることが多いからだ。

ヒーローといえば模範的な人物像を好む人からすれば、井上作品が合わないと感じることもあるだろう。その意見もわかる。

しかしそうした先入観を捨て作品を見れば、他者のために己をなげうって戦うヒーローの姿が見えてくる。

 

テレビシリーズの乾巧も何度も襲い掛かる苦しみに苦悩しながらも何度も立ち上がった。そしてそれはパラダイス・リゲインドでも描かれた。

だからこそ本作は仮面ライダー555の続編として芯の通ったものになっていたと思う。

不満点、今一つと感じた部分

不満点としては琢磨逸郎をはじめテレビシリーズに登場し生き残った人物がもう少し登場して欲しかった。とはいえすでに鬼籍に入られたり、芸能界を引退している方もいるのでやむを得ない部分であるのだが。

 

また仮面ライダーミューズがコウタを襲い、それに対してカイザや直也たちが戦う場面。アクションシーンの中でカメラのブレが大きく正直見づらかった。

臨場感を出すための演出なのだろうが、せっかくのアクションシーンなのだからもっとはっきりと見たかったという気持ちがある。

 

そして仮面ライダーミューズに変身する胡桃玲菜だが、個性と存在感はあるものの555の世界観の中で浮いていたように感じる。

短い時間の中では難しかったかもしれないが、もう少し彼女自身について人物の掘り下げがあれば終盤の行動に説得力が生まれたように思う。出番と台詞の多い人物ではあるが、彼女の心変わりについて今一つしっくりこないものを感じた。

夢の続き

パラダイス・リゲインドを観る前はどんなに悲惨な結末が描かれているか心配だった。同時に本作に関しては、どういう結末でもそれを受け入れる覚悟を持って鑑賞に臨んだ。

結果的に思っていたよりは大分穏やかな結末をむかえたが、不安要素がないこともない。

 

スマートブレインの巨大な組織力の前にいつか巧たちは倒されてしまうかもしれない。

 

テレビシリーズで終わっていれば描かれなかったであろう一抹の不安が、続編が公開されたことにより生まれてしまった。

しかし考えてみれば、そもそも仮面ライダーとは巨大な悪の組織と孤独に戦うヒーローであった。

自分の苦しみや悲しみを仮面に隠し、悪と戦い最後には必ず勝つ。歴代ライダーはそうしてきた。

であるならば、例えパラダイス・リゲインドの後に戦いが続いたとしても必ず仮面ライダー555は勝つだろう。

少なくとも乾巧は今日もどこかで誰かを守るために戦い続けている。

そのことを確認できたことが、20年越しの夢の続きであった。

 

そしてその夢はまだこれからも続いていくかもしれない。

パラダイス・リゲインドは、そんな未来に期待させてくれる良作であった。