ネコはミカンを片手に夜明けを待つ

日々の中で出会った映画・本・お店、演劇や物などを総合的に紹介する雑記ブログです。

いつもそこにある花

「あっ!あの記事読みました。私はあの子のことが大好きだから凄く嬉しかったですよ」

もう随分昔のことですが、とあるメイドカフェのメイド長のことを記事にして書いたことがありました。

そのメイド長と仲の良い親友とも呼べる間柄のメイドさんがいたのですが、その人に会った時に冒頭の言葉を私に伝えてくれました。

とても嬉しかったですね。そのメイド長さんだけでなく、その周りの人も喜んでくれたことがとにかく嬉しかったんです。

おこがましいかもしれませんが、誰かを助けているようで誇らしかった。

 

この言葉を伝えてくれたメイドさんはとっても明るい方で、まるで花のように笑顔が素敵な方でした。

どんな話も楽しそうに聞いてくれて、だからお話するのが凄く楽してくて私はその人に会うのが楽しみでした。

 

そんな大好きなその人が事情により卒業された時はとてもショックでした。

次はいつ会いに行こうかと楽しみにしていましたね。

その当時の自分にとって、大袈裟な例えに聞こえるかもしれませんが優しいその人は女神のように感じていたんです。

 

それからしばらくして、その方が店に戻ってきてくれました。

今度は主に料理を作る役割を担当されていて、直接会える機会はなかなかありませんでした。

だけどその人がそこにいてくれること。それだけで私には十分で、とても嬉しかったですね。

それに時々キッチンから聞こえてくるその人の声に耳をすませると、向かい合って話をしていなくても幸せな気持ちになることができました。

表には出なくてもお店を支えてくれている、そのことに感謝していました。

 

それからまた店を離れられて、そしてまた戻ってこられて・・・・・・

 

明るい笑顔の裏側で、きっと想像もできないような苦しいことや辛いこともたくさんあったと思います。

そういうものをお客さんの前では微塵も見せない気丈さを、私は一人の人間として心から尊敬していました。

数えるほどしか会うことはできませんでしたが、彼女がお店とそこで働くメイドたちを心から好きであることがいつも伝わってきて、そのことが嬉しかったです。

 

自分にとって女神のようだと思っていた方ですが、それにも関わらずその方に対して何もサポートになるようなことをできなかったことが悔しいですね。

お店で会った時に自分のことばかり話すのではなく、もっとその人の話を聞いてあげたかった。

直接的な手助けはできないとしても、その人が私に優しさをくれたように私もその人が楽しくお店でお給仕できるように貢献したかった。

そう思っていましたが、これは私の傲慢でしょうか。

 

そうだとしても、それでもそうしたかったというのは偽りのない気持ちです。

 

「ナズナ」の花言葉は「私の全てを捧げます」というそうです。

とても献身的で優しい言葉ですね。まさにその人に相応しい素敵な言葉でした。

いつも明るく笑顔で私たちをむかえてくれた彼女、美味しい料理を作ってくれた彼女、仲間や親友を大切にしていた彼女。

そんな人に出会うことができたのは、私にとって人生の宝でした。

 

いま再び別れの時がやってきました。

それを一番寂しく、そして苦しく思っているのは彼女自信だと思います。

会えなくなるのはとても辛いです。

 

しかし彼女は私にとって大切な人です。だから私は彼女に生きていてほしい、元気でいてほしい。

だから今度の別れも、私は彼女の幸せを願う別れにしたいです。

 

人生に絶望したことは何度もありますし、生まれてこなければよかったと考えた夜は数え切れません。

だけど、それでも生きてきたから私は彼女に出会うことができた。

良いことより嫌なことのほうが人生は多いのかもしれませんが、それでも生きていたら幸せなこともあると彼女との出会いを通して私は信じることができました。

 

だからお願いします。

これから先どんなことがあっても元気で生きていて。

そして私たちにくれた明るさを、これから新しく出会っていく人たちに与えてあげてください。

 

貴女ならきっと大丈夫だから。

ナズナはどんな場所にも根を張り花を咲かせることができる。

それは言い換えれば、いつも私たちのそばにナズナはあるということ。

 

だから会えなくなっても私も大丈夫。いつでも貴女を思い出すことができるから。

貴女のチェキを見た時、貴女が好きだったキャラクターを見た時、そして貴女がいてくれた場所を訪れた時。

そして同じ世界にいる限り、いつかきっとまた会える日が来ると信じています。

 

本当にお疲れ様でした。どうか今はその体をしっかりと休めてください。

貴女の進む未来が幸せであるように祈っています。

その未来に向かっていってらっしゃいませ。

 

 

2年間楽しい想い出をありがとう

2年間とはあっという間でした。

彼女が最初にお店に来た時はコロナ禍の真っ只中でしたね。最近はコロナのコの字も聞かなくなったので、何だか何十年も遠い昔のような気がします。

 

当然なんですが、最初はやっぱり緊張していました。先輩メイドの後ろに隠れるようにして、お客さんの様子を見ていました。

おとなしそうな子だと思いました。もしかしたら短い期間で卒業してしまうかもと思いました。

それがこんなにも長くいてくれたことに驚くと同時に感謝をしています。

 

この2年間は色々なことがありました。たくさんの出会いと別れがありました。

だけど彼女がこの店にいてくれることに大きな安心感がありました。

 

あれは私の推しの卒業が発表された時でしたが、彼女が心配して「大丈夫?」と聞いてきてくれたんです。

その言葉が本当に嬉しかったですね。自分のことを誰かが気にかけてくれていることが嬉しかった。

推しは卒業してしまうけど自分は決して一人ではないような、そんな気持ちを彼女にもらいました。

 

最初は緊張していた彼女も、1年を過ぎると先輩メイドとしての風格が出てきました。

たくさんのお客さんにも存在を知られるようになり、ファンも多かったと思います。

次々と入ってくる後輩とも良好な関係を築けていたようで、時折他のメイドのSNSで姿を見かけると仲のいい様子が嬉しくなりました。

 

そんな中でも、彼女とほぼ同じ時期に入った一人のメイドとのコンビが好きでした。

特に何がきっかけでコンビに見えるようになったのかはわからないのですが、異なる個性の二人が並んでいる姿が私は好きでした。

 

そういう出会いはなかなかないものです。何かが違っていればきっとこの二人は出会わなかった。

その仲の良いメイドが店を卒業するときは彼女もとても寂しそうでした。

それでも彼女は頑張って今日までメイドを続けてくれました。そこには最初の頃のように、緊張して先輩の後ろに隠れていた姿はもうありません。

いつも一生懸命、積極的に後輩たちの前に立つ姿は立派だったと思います。

 

卒業した彼女と仲の良かったメイドが店に戻ってくることになりました。

そのことを店で彼女に話した時、嬉しそうな顔をしていたのが印象的です。

だけどこうして卒業を迎える今、もしかしたら今度は自分がここを去ることに複雑な気持ちを抱いていたのかもしれません。

無理やりなこじつけかもしれませんが、その子が戻ってきてくれたのは2年間頑張ってきた彼女に対しての神様からのご褒美だったのかなと思います。

 

新しい道に進むにあたっては多くの不安があるでしょう。

これまでの日常が変わっていくというのは、良くも悪くも最初は戸惑いの連続です。

それでも彼女ならきっと大丈夫だと私は思います。

 

メイドカフェという場所にはいろいろなお客さんが来ます。みんなそれぞれ生まれた場所も育ってきた環境もバラバラです。

価値観も大きく違います。それは彼女と一緒に働いてきたメイドたちも同じことがいえます。

そんなたくさんの人たちと彼女は出会い向き合ってきた。

人との出会いがたくたんあったということは、人知れず大変なこともあったと思います。

 

だけど彼女はそれから逃げずに向き合ってきた。

2年間という長い時間この場所にいてくれたことが、何よりもそれを証明しています。

だから今後の人生で大変なことがあったとしても、彼女ならきっと大丈夫です。

それでも少しだけ過去を振り返りたくなる時があったとしたら、どうかこの場所のことを思い出してほしい。

彼女のことを大切に思っている人たちが、ここにはたくさんいるから。

 

約2年間のメイド生活本当にお疲れさまでした。楽しい時間をありがとうございました。

次の新しい目標に向かって行ってらっしゃいませ。

 

 

新しい目標に向かって頑張って

時間が過ぎるのがあっという間で気が付けば2023年も5月が終わろうとしています。

出会いと別れの季節はおもに3月から4月といわれていますが、それが過ぎても今年はいくつかの別れがあるようです。

メイドカフェで出会った方が卒業する際に、想い出をブログに書き始めて約3年。

もうそんなに過ぎたのかと思うのと同時に、我ながらよく続けているなあと感心なのかなんなのかよくわからない気持ちもあります。

 

今回卒業していく方とはたくさん会えたわけではありません。

 

それでも最初に会いに行ったきっかけは覚えています。

お客さんのツイートで、新しく入ったメイドさんが前にいたメイドに似ているという一文を目にしました。

その前にいたメイドというのが私の推しで、そのツイートを見た一時間後には気づくと店にいました。

 

マスク越しに見えるのはくっきりとした奇麗な瞳。

なるほど、確かに顔立ちの雰囲気は推しに似ていなくもないと思いました。

 

「メイドになったきっかけはやってみようと思ったから」

彼女は語ってくれました。

人それぞれメイドカフェで働こうと思った理由はあると思うんですけど、そんな風に挑戦してみようと思う気持ちでそれを実行できる人は凄い。

「実は貴女が昔ここにいいた推しに似ているという情報を聞いて会いに来たんです」

私は答えました。

「そうなんですか! それじゃあ私を推しにしてもいいですよ」

真っすぐで屈託のない言葉に思わず笑ってしまう私。

明るい人だと思いました。

 

それでも会ってみれば、やっぱりこの方と推しは別の人間なのだと感じました。当たり前のことなんですけどね。

そんなこんなで出会った方なんですが、会えた回数は少なくても一生懸命頑張られていたと思います。

 

「メイドになって大変なことはなかったですか?」

「あったとは思うんですけど、それよりは楽しいという記憶の方が勝っているんですよ」

彼女の卒業が発表された後に会いに行ったとき、彼女が語ってくれました。

その言葉を聞いた時に心から安心しました。

 

色々あって私自身、最近はネガティブな言葉を口にすることが増えています。

良くないとは思うんですよ。思うんですが、止められない。

何となく人間の行動や思考は自分の言葉にかなり影響されると思っていて、良くない傾向だと感じています。

だからこそなんですが、人の話すポジティブな言葉を聞くと気持ちがいいし前向きな気持ちになれる。

特に若い人の前向きな言葉には元気をもらいますね。

 

この方もそうだし、推しもそうなんですがみんなそれぞれの道があって卒業していく。別れは確かに辛いけれど、人にはそれぞれの時間があるんだと最近思うようになりました。

それに至ったのはメイドカフェで色々な子にであったことも大きいです。

 

そして思うのは、自分の道を責任と誇りを持って選べていたらもっと余裕を持って他人の選択を応援してあげられるんだろうなということ。

私はかなり場当たり的に生きてきて、あんまり自分の選択で生きてきたという感じがしないんですよね。

だからかなり保守的というか、変化に弱い。日常が変化してくという当たり前のことに恐怖感を感じている。

でもやっぱりそれじゃ駄目だと思う。

 

自分が選択して自分の道を生きていくということ。

当たり前の、でも私の人生に欠けていることをこれまで出会った子も今回卒業する方も教えてくれているんだなと思っています。

 

改めてこの方が楽しい想い出を作れて良かったと思います。

どうかこれから進む新しい道でも元気で過ごせますように。

次の目標に向かって行ってらっしゃいませ。



 

 

 

舞台感想『キグルミオッカナイト』

 

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先日観劇した『控えめに言って、崖野は殺した方がいい』で、改めて俳優が演じる生の感情が舞台演劇の魅力だと感じた。

その感情が、思いっきり『笑い』というポジティブな方向に向けられた作品がこの記事で紹介する『キグルミオッカナイト』だ。

本作は福岡で活動する劇団ジグザグバイトの作品である。

物語は架空のテレビ局である『NHA』を舞台に退魔士(エクソシストのようなもの)のショウコが、弟のユウゾウにかけられた呪いを解くために二人でNHA内で発生している子どもの失踪事件に立ち向かうというもの。

 

放送局、NHA・・・・・・ この単語に何かを感じる人も多いだろう。

そしてこの時点で察しのいい人は気が付くと思うが、本作は誰もが一度は目にしたことのある放送局のキャラクターを題材にしたコメディ作品だ。

 

舞台の始まりは何やら暗い雰囲気で幕を開ける。しかし次の瞬間には、180度真逆の子ども向け歌番組のセットらしき場所に場面が切り替わる。

歌のお姉さんに扮したショウコと、同じく歌のお兄さんに扮したユウゾウが軽快に歌を歌っていた。キグルミのキャラクターも一緒である。

正直何が起こっているのか最初の場面とのつながりが全くわからなかったのだが、この歌の場面がとにかく楽しくてそんなことは気にならなくなった。

 

この場面の何が面白かったのだろう?

 

それはたぶん大人が、しかも演技力のある俳優たちが全力で悪ふざけをしているような緩さが心に刺さったのだと思う。もちろんいい意味での緩さだ。

そしてその緩さは作品全体を貫き、気が付けばキグルミオッカナイトは最初から最後まで笑いの絶えない楽しい作品となっていた。

 

ドラマでも映画でも笑えないギャグというものがある。

それが生まれてしまう理由は、ギャグが作品の雰囲気に合っていない、そもそも作品の世界観がギャグ向きでないのに無理やり入れてしまったなどが考えられるだろう。

 

最初の段階で「これはコメディですよ」と示されたことにより、観客である私はその後に展開される怒涛のギャグラッシュを違和感なく受け入れることができた。

なんせどこかで見たことのあるようなキャラクターや、どこかで見たことのある番組の概念を擬人化したようなキャラクターがわんさか出てくる。

それでいて主人公たちの存在感が薄くならないのは凄いことだ。

強烈なキャラクターたちが登場する一方で、本作はショウコとユウゾウの物語であることだけは最後までぶれることはなかった。この絶妙なバランス感覚も本作の魅力だ。

 

強烈なキャラクターたちの中でもひときわ存在感を放っていたのが、來人演じる体操のお兄さんこと外道本道である。

ある意味で三人目の主人公といえるほど彼の体を張った存在感は凄い。

ネタバレになるので詳しい内容は書けないが、文字通り体を張って観客を笑わせにきていた。

本作がシリアスな場面でも空気が重くならなかったのは本道の存在あってのもの。

 

実は本道のようなキャラクターは作品によっては諸刃の剣にもなりえる。

こうしたキャラクターが作品の世界観を壊してしまった場合、途端に作品全体を冷めた目でしか見れなくなるのだ。

だが本作の場合それはなく、ひたすら笑いに徹することで俳優の体を張った演技を観れる生の舞台の面白さを再確認させてくれた。

 

本作が真面目に笑える作品になっていたのは世界観の構築はもちろんのこと、俳優陣の熱演あってこそだ。

ショウコを演じた佐藤柚葉は歌のお姉さんとしてぴったりだったし、ユウゾウを演じた八坂桜子も呪いに蝕まれる繊細さと歌のお兄さんの元気さを力強く表現していた。

 

ショウコたちと敵対するNHA八人衆も個性的な面々が揃っていた。

この八人衆はそれぞれが有名キャラクターたちのパロディになっている。元ネタのキャラクターの特徴や個性をきちんと押さえていたことに好感が持てた。

個人的に立花恭平演じる見所萬斎のキャラクターが面白い。

八人衆の中では比較的まともな悪役なのだが、だからこそ本作の世界観の中で存在感を放っていた。

 

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立花氏のことは書店で上演されるという少し特殊な演劇作品『極楽こたつ』で知り、非常に演技力の高い人だと感じている。

それは本作においても遺憾なく発揮され、棒を使ったアクションシーンの中でも余裕を崩さない萬斎のキャラクターを魅力的に表現していた。

 

大変面白かった本作だが惜しむらくは怒涛のギャグに流され、冒頭の話の発端となった部分が何を意味していたのかが少し分かりづらかった。

あくまでも個人的な意見ではあるが、冒頭のドラマが中盤辺りにまとめて組み込みこまれていたら、全体の話やキャラクターたちの関係や気持ちを理解しやすかったように思う。

 

最後にもう一つだけ個人的な思いを。

本作にはエンタメ集団『トキヲイキル』のメンバーである岸田麻佑が女忍者役で出演している。

グループのメンバーである桃咲まゆは福岡を舞台にした特撮ドラマ『ドゲンジャーズ』でヒロインを演じていた。

またシリーズ3作目である『ドゲンジャーズハイスクール』で主演を務めた藤松宙愛も、以前はトキヲイキルに所属していた。

 

もともと劇団ジグザグバイトに出会ったのもドゲンジャーズがきっかけだった部分もあり、そうしたことからも縁というものを感じる。

ライブでしか見たことがなかったが、本作で岸田麻佑の演じる姿を見ることが出来て嬉しかった。

 

 

 

舞台『控えめに言って、崖野は殺した方がいい』感想

※この記事には作品のネタバレを含みます。

「侑芽さんは舞台を観る時にどこを観ていますか?」

たまたま先日聞かれたのだが、その問に私はストーリーと答えた。

もちろんそれだけではないのだが、もともと映像作品や小説で育ってきたこともありストーリー性の高い作品を好んでいるのは確かだ。

 

そういう背景故にストーリーを重視して観てきたのだが今回、改めて舞台演劇の魅力を考えさせられた作品に出会った。それが『控えめに言って、崖野は殺した方がいい』である。

 

脚本は『半沢直樹』やNetflixドラマ『サンクチュアリ-聖域-』などを手掛けた金沢知樹が担当し、福岡で活動するタレントのゴリけんやHKT48の堺萌香をはじめとするキャストが出演する作品だ。

 

本作の感想を一言でいえば「ポジティブな不愉快さ」である。

 

ストーリーは、佐賀の小劇団の稽古場で展開される。

不慮の事故で亡くなった父親のために、父が社長を務めていた劇団の経営を引き受けた主人公。しかし劇団の内情は古株のメンバーが若手をいじめ、さらに脚本家と古株メンバーとの争いが耐えないといった最悪なもの。

 

そして主人公は、何かと自分や他のメンバーと衝突する役者の妹にも手を焼いていた。

困り果てた主人公、かすかな希望にすがり、東京で活躍する有名演出家の崖野を佐賀に呼ぶが・・・・・・

 

全編を通して描かれるのは人間同士のドロドロとした衝突だ。

作品が始まって崖野が登場するまでの間でも、劇団員同士での陰湿ないじめやしごきが描かれる。

例えば先輩のダメ出しに対して「すいません」というしかない状況で「すいませんじゃないんだよ」といわれた時の苦しや、それを見ているしかない時の気まずさ。

 

私も学生時代に、授業中に教師から激昂され立ち尽くすしかないクラスメイトを見ている時に似たような気まずさを感じたが、そうした居心地の悪さが本作からは伝わってきた。

 

そうした不愉快さは、タイトルにもなっている演出家の崖野が登場してさらにヒートアップする。

最初こそ俳優思いの演出家に思えた崖野だが、実態は自分以外の人間や佐賀という土地の全てを見下す傲慢な人間であった。

稽古場で酒を飲み、女性の劇団員をまるでキャバクラのように隣に座らせその他の劇団員に対してはいじめ、パワハラといっても差し支えない屈辱的な仕打ちを行う。

 

こうした崖野の横暴に劇団員たちははじめて一つにまとまり復讐を開始するのだが、それを決意する流れが唐突だったのが惜しかった。

確かに崖野は復讐されても仕方のない人間ではあるのだが、だとしても常識的に考えれば主人公たちの選択はいい年齢をした大人が考えることではないと感じた。

 

だがそれはあくまで「常識的に考えれば」である。

 

本作の最大の山場はまさに主人公たちが崖野への復讐を決意する場面であり、この場面のために本作はあるとっても過言ではない。

そしてこの山場で描かれるのは感情の爆発である。

 

崖野にさんざん痛めつけらられた主人公や劇団員たちは涙を流す。

役者陣の熱演により、彼らの中にもいじめやしごきを行ってきた人物たちがいるにも関わらず可哀想と思ってしまうのだ。

崖野に帽子を投げつけられ、間近で侮辱の言葉を浴びせられる悲惨さ。

しかしながら、観客にとってまるで自分が痛めつけられているようなこの感覚こそ舞台が持つ生の人間のエネルギーをこの上なく表現している。

 

それは例えば映画の場合、スクリーンという壁やカメラというフィルターにより悲惨な場面でもどこか美しさや気高さを感じるのとは趣旨が異なっている。

ロケーションによる背景のない舞台演劇にとって、俳優の演技が全てだ。そして俳優の演技とは感情の表現である。

 

崖野と劇団員との間で行われる感情の発信と受信、憎しみや怒りといった負の感情に偏ったやり取りではあるが、少なくとも私にとっては間近で芝居を観る舞台の面白さが何かを実感することができた。

 

本作にテーマがあるとすれば『因果応報』だろうか。

最終的に崖野には罰があたり、その意味では爽快感のある終わり方にも見える。

しかし、いかに痛めつけられたとしても人間として越えてはならない一線を越えた主人公たちにもいつか天罰が下る時がやってくるだろう。

その時彼女たちを待ち受けるのは大きな後悔や苦しみだろうか。

 

劇団のメンバーが崖野の横暴による被害者であることは間違いない。

しかしその中でも陰湿ないじめが行われていた。主人公ですらも、崖野を東京から呼ぶ資金を調達するために若手に無理を命じている。

かろうじて罪のない人間がいるとすれば若手の面々なのだが、彼らの未来にも罰が下るのならばもう少し彼らの闇を描いてもよかったと思う。

 

「ここで終わり!?」と感じるラストも含めて、面白いか面白くないかで考えると正直なところよくわからない。

恐らく私のように創作物にストーリー性を求めている人が本作を観ると、きっとどう消化したらいいかわからない人もいるだろう。

 

しかしながら、本作がストーリー性以上に舞台演劇というコンテンツの魅力を私に伝えてくれたのは確かだ。

俳優の演技力や感情の表現、それがダイレクトに伝わってくるのが舞台演劇の魅力。

だからこそ、それを表現する俳優陣には研ぎ澄まされた真剣さが求められる。

話の内容が静であれ動であれ、全身全霊をかけた人間の生命力を観客に伝わるのが舞台演劇なのだなと『控えめに言って、崖野は殺した方がいい』を観て改めて感じた。

 

話の大部分がいじめの場面なので、観ていて気持ちよくはないので不愉快さは感じる。しかし最後には舞台の魅力に気づく。そういった意味で本作は「ポジティブな不愉快さ」を持った作品である。

最後に個人的な感想を一つ。

若手劇団員の一人であるみさきを演じたのは、福岡で活躍する女優の美咲だ。

2023年前半では『LastMoment  ~福岡で最後に贈るありがとう~』や劇団テンペストの『妖怪事変』に出演。その他にも演劇ボーカルユニット『福岡オトメ歌劇団』のメンバーとしても活動している。

本作においては決して台詞の多い役柄ではなかったが、だからこそ演技力以上に感情を込めることに全力を尽くしていたように感じた。

泣くこと、怒ることという感情の爆発を表現する作品を経験した彼女が今後どういった役柄に挑戦していくのか。

これからの彼女を見守る意味でも、本作は重要な作品であったと感じている。

 

 

太陽を追いかけて 〜舞台演劇『妖怪事変』感想〜 その2

 

前回の記事

 

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理解されること、人を信じること。

 

怖い。

 

例えば理解されたとして、わかってくれたと安心するよりも軽蔑されたんじゃないかと思う不安。

信じてもらえたとして、失敗をした時にその信頼を壊してしまうんじゃないかという不安。

そんなことになるくらいなら、最初から信じなければ傷は軽い。

わかってくれたと思うより、どうせわかってくれないと思う方が「やっぱりそうだよね」で終わらせられる。

 

「信じられぬと嘆くよりも 人を信じて傷つく方がいい」というのは金八先生の歌だったか。

だけどやっぱり傷つくのは嫌だ。特に相手を大切だと思えば思うほど傷つきたくない、傷つけたくない。

そんな気持ちでいっぱいになる。

智尋さん、私は・・・・・・

「ちーちゃんですよね!知っていますよ!」

色々な場所に行き、終演後に俳優と話をして何がきっかけで演劇を観るようになったか尋ねられた。

「今中智尋さんがきっかけで」

と答えると、過去に彼女と共演したことのある人にも出会う。

 

「凄く元気で頑張り屋さんなんです」

その人が教えてくれた。そうか、自分の知らない場所でもやっぱり彼女はみんなのために頑張っているのだと知れて嬉しくなった。

「太陽ですよね、智尋さんは。大変な時もあると思うけど、そんな時に力になれるよう応援していきたいです」

周りでは何人かの人が話を聞いている。あまり演劇に馴染みはないらしい。

今中智尋というとても素敵な人の名が、その人たちに覚えてもらえたら嬉しいと思った。

 

妖怪事変で描かれた治と猫娘の物語は、今中智尋と私のこれまでにどこか重なる。

だけど決定的に違うのは、私自身は以前の私と変われていないこと。

 

「◯◯さんが努力していること、ちゃんと知っていますよ」

以前色々と今や未来への不安を抱えていることを話した時に、彼女がそう優しく言葉をかけてくれた。

 

嬉しかった。だけど同時に申し訳なかった。

 

私は彼女や、出会った人たちのように未来につながる努力をしていない。

ただ日銭を稼ぐことに夢中で、そんな日々に不安で、それがわかっていても改善するための努力に向き合うのが嫌で逃げ場所を求めて色々なことにお金を使った。

 

必ずしも全てがそういう時ばかりではなかったけれど、そんな自堕落な生活を繰り返してきていたのは確かだ。

優しい彼女の言葉が嬉しかった。

 

だけど智尋さん・・・・・・ 本当は、私はあなたにそんな言葉をかけていただけるような価値のある人間ではないんです。

 

舞台の上で真っ直ぐに夢を語る猫娘の姿が、太陽のように眩しかった。

 

宴の終わりに

本当に観たいと思っていたものが全て詰まった作品だった。こんなにもこの場所に来てよかったと思えたのはいつ以来だろう。

 

いや、そうじゃないのかもしれない。

今中智尋がいてくれる場所。そこは私にとっていつだって来てよかったと思える場所だった。

 

猫娘のライブシーンがある。重要なこの場面を、溜めに溜めて終盤に持ってきた展開に胸が熱くなった。

最後の妖怪が集合する場面で披露された彼女の大道芸。これも見たかったものだ。

改めて本当に凄い人だと思う。

 

彼女だけではない。本作はそれぞれの俳優が特技を披露できる場面が自然な形で挿入されている。

初めて観た人は純粋に楽しむことができるだろう。

逆にこれまでの各人の活動を知る人であれば、そうした俳優たちの人柄をつぶさに観察し、どうしたら魅力的に見えるか考え抜かれた脚本と演出に魅了されたはずだ。

 

果たして舞台の上にいるのは猫娘なのか、それとも今中智尋なのかどちらなのだろうと思った。

これはマイナスな意味ではない。

それくらい演じる役柄と俳優自身が重なるように考えられているため、猫娘の言葉がそのまま彼女の言葉として伝わってくる。

 

猫娘の人の心を前向きにさせる言葉。

それは、いつか今中智尋が私にいってくれたような優しい言葉。

 

智尋さん、これはきっとあなたの心だったんじゃないかと思いましたよ。

きっと大丈夫だよ。智尋さんが頑張って全力で伝えたいと思ったこと、たくさんの人に届きましたよ。

 

沈まない太陽

生きる目的というほどの大きなものではないけれど、今中智尋に出会って、この作品を観て人を理解できる人間になりたいと思った。

何をシン・仮面ライダーみたいなこといっるてんだ。そう思う人もいるかもしれない。

 

それでも私にとって自分で閉ざした世界を広げて、放棄してきた人を理解する努力を継続することは意義のあることだ。

生涯を賭けたとしてもできないかもしれない。人というのがどれだけ複雑なものなのかは自分にもわかる。

 

それでもその努力を諦めたくないと思った。

そしていつか彼女からもらった言葉に値する・・・・・・ 自分をそう信じられるような私自身になりたい。

 

千秋楽の最後の公演後、物販で彼女の姿を見た。最後までファンに丁寧に向き合い、疲れ一つ表に出さない姿がそこにある。

ずっとそうだった。その姿に何度も励まされてきた。

 

出会ってくれてありがとう。

 

心からそう思った。これかも彼女はきっと輝き続ける。それは決して沈むことのない太陽のように。

 

終わりに

あんまり人生の中で年下と関わる経験がなかったんですよね。

仕事もどっちかといえば一人でできる方を選んできたし、年上と話す方が気が楽だったし。

でもただの観客に過ぎないけれど、智尋さんをきっかけにたくさんの若い俳優さんたちと出会えたことは確実に自分の人生のプラスになっていますね。

 

心の若返りっていうのかな。こういうと人生の先輩たちに怒られそうだけど、ただでさえ閉ざして固くなっていた自分自身が年齢重ねるごとに余計に頑なになっている。

確実にそれを感じてたんです。

だから月並みな言い方だけど、全力で今を生きる若い人たちの姿に心が掻き立てられるんですよね。

本当に素晴らしい作品を観せてもらって、改めて劇団テンペストの方々に感謝します。

その中でも代表として本作を作ってくれた武東亜斗夢さんには本当にありがとうと伝えたいです。

 

この街に来て色々な人に出会って、いつかその人たちが一つの場所に集まる作品が観れたらと思っていました。

その夢を亜斗夢さんが叶えてくれた。

本作を公演することは亜斗夢さんの夢でもあったと思いますが、私にとっても本作は夢だったんですよね。

会場に行って、久しぶりに会う俳優さんたちもいて、でも私のこと覚えていてくれて。

 

そういう時に自分のこの街の一員になれたのかなって思ったんです。

 

改めて劇団テンペストをはじめ本作に携わった出演者、スタッフの皆さん本当にお疲れさまでした。素敵な宴をありがとうございました。

そして今中智尋さん

どうか体を大切にして元気でいてくださいね。

 

妖怪たちが治は自分たちの希望という場面がありました。

私にとっての希望は智尋さんがこの世界にいてくれること。

いつかまた

 

劇団テンペストTwitter

 

 

 

太陽を追いかけて 〜舞台演劇『妖怪事変』感想〜 その1

 

前回の記事

 

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『妖怪事変』という作品

ストーリー

『妖怪事変』は人並み外れた強さ故に恐れられ、孤独に生きる主人公・治(おさむ)の物語だ。

人々から疎外されている治だが、その心には優しさも持っており豆太という弟分がいる。

 

ある日治は町で一人の娘を助ける。

だがそれにより、怪我を負わせた町のゴロツキから話を聞いた役人に責められることになる。

孤独に育ち、人助けをしても周囲から受け入れられないことに苛立ちと絶望を感じる治。そんな彼の耳にある日奇妙な声が聞こえてくる。

 

その声に導かれるままに不思議な壺を開ける治。気を失い、目を覚ました彼の目の前には妖怪たちが生きる不思議な世界があった・・・・・

作品の魅力

本作の魅力を一言で表現するなら「何でもあり」ということに尽きるだろう。

妖怪というキャラクターの面白さをはじめ、多数のダンサーたちによる魅惑的なダンスシーンや俳優陣によるアクションシーン。

さらに各俳優の特技を活かした日本舞踊や大道芸、歌に至るまで、まるで幕の内弁当のようにさまざまな要素がぎっしりと詰め込まれている。

 

ポイントとなるのが、こうした要素が物語の展開ときちんと結びついて登場してくることである。

例えばダンスシーンは妖怪世界のショーパブのような場所で行われているという設定だ。そこには当然その場所で展開されるドラマがある。

ド派手なパフォーマンスは観客を飽きさせないための工夫の一つだが、それを無理に織り込もうとして世界観を壊してしまう可能性を持つ諸刃の剣でもある。

 

映画やドラマなどの完成された作品と違い、生身の人間が目の前で演じるのが舞台演劇の面白さだ。

作品によっては、目の前で第四の壁を壊が壊されることにより生まれる面白さも確かにある。

だが個人的に、パフォーマンスを世界観の中で自然に登場させる本作の脚本はとてもよく練られていると感じた。

それにより、全体を振り返って「あの場面だけ話の中で妙に浮いていた」と感じた場面が本作にはない。

 

物語後半のメインとなるのは、妖怪たちにとって大切な儀式である百鬼夜行。

本作では妖怪たちによる派手な祭りとという意味合いで行われるが、祭りだからこそ唐突に大道芸やダンスが始まっても違和感がない。

その中には、何と妖怪世界のアイドルによるライブまである。

楽しい。シンプルに妖怪事変は楽しい作品なのである。それはまるでディズニーランドのように(といっても、私は行ったことはないのだが)。

 

しかしながら、こうしたパフォーマンスはあくまで作品の要素の一つに過ぎない。

 

本作の主題は、孤独な治が妖怪と出会い成長していく過程だ。作中で最も治と深く関わるのは今中智尋が演じる猫娘。

歌うことが生きる理由と語る猫娘と出会い、他の妖怪とも交流する中で治は次第にそれまでの自分の態度を改めていくことになる。

ただ一つの夢

生涯唯一の脚本

子どもの頃になりたかった職業を夢というのなら、私の人生の中で唯一なりたいと思った夢は脚本家だった。そのことは小学校の卒業文集にも書いた。

小学校6年生の時だったが、学年最後の発表会か何かで劇をすることになり脚本を書いた記憶がある。

今思えばできあがったそれは、脚本には程遠い子どもの稚拙な書き物にすぎなかった。

最終的にクラスメイトや担任教師による書き直しを受けたそれは、私が書いたものとは全く別のものとして上演されることになる。

自分の書いたものと違うものになったというのに、私には不思議と嫌な気持ちはしなかった。

自分で頭を捻り物語を作り、それが形となる面白さ。

夜遅くまで起きて作業していることに対する、自分がどこか大人になったような感覚。

何より自分が脚本を書くことが誰かのためになるのだという幸福感。

そうしたものを確かに感じていたと思う。そこには確かに熱意があった。

 

それが私が人生で脚本というものを書いたただ一度の経験だった。

それ以来、脚本を書いたことはない。

自分の世界を閉ざす中で、脚本家になりたいという夢は忘れていった。

 

いや、それは正確ではないかもしれない。

自分がやりたいことが何なのか考える時はたくさんあった。

やろうと思えば選択できる機会もきっとあった。

それでも何一つやろうともしなかったのは、ひとえに自分が世界を閉ざしたことにより自分で自分の可能性を潰したからに他ならない。

 

人と思うように付き合えず、世間で一般にイメージされるところの花火大会に行ったり海に行ったり、恋人と気ままに出かけるような青春を過ごせなかった経験。

それによる人生への失望。自分では努力したつもりでも何ら良い結果の起こらない絶望。

 

そして自分の人生を支配した一つの考え・・・・・・ 何をしても無駄

 

もともと諦め癖はあったと思う。何かを長く続けるのは苦手だった。努力するのも苦手だ。

自分でも思い出せないある時から、私は何かに挑戦することを止めた。

何かに踏み出しても、心の奥底では「どうせ無駄なこと」と冷めていたと思う。

 

その結果私は『信じる』というのが何なのかわからなくなった。

 

仕事を探す過程でもっともらしい志望理由を探す。相手先に合わせただけの中身のない言葉。

目的などなく、ただ月々の生活費のためだけに行う仕事。

あの稚拙な脚本もどきを書いた時のような熱は一ミリもない。

ありふれた、どこにでもある話

今でも強烈に覚えているが、客先で必要な作業をしている時に足りないことを指摘する度に、それが必要なことであるにも関わらずまるで敵が来たといわんとばかりに責め立てられたことがある。

しかもその客先というのが、いわゆる世間的には立派な職業と呼ばれている場所で、実際に多くの人の助けにはなっているのだが私に対しての態度は好意的とはいえなかった。

もちろん私に非のある時もあっただろう。

だが世間から見れば、称賛と感謝の念を集めるのはその客先であり私が何をしたところで誰かが認めてくれるわけではない。

 

世の中などそんなもの。今はそれがわかる。

腹は立つがこの世界にありふれたどこにでもある話だ。

そうした相手にしがみつかなくては、明日の食事にすらありつけない。

 

私は一体何のために生きているのだろうと悲しくなった。

本作が伝えたかったこと

孤独になる理由

治の頭の中に響く声の正体は、かって妖怪世界を征服しようとして封印された妖怪・妖狐であった。

孤独感から力を求めたこの妖狐こそ、赤子の頃に母親に捨てられた治に剣を教え、彼に人並み外れた力を授けた元凶である。

猫娘をさらった妖狐は彼女を助けに来た治と対決する。

その中で両者は互いにとっての『生きる理由』に向き合っていく。

 

生きる理由ほど全人類にとって頭を悩ませるものはないだろう。

恐らく人間として生まれた以上、誰もが一度は考えたことがあるのではないだろうか。

その命題に対して本作は真摯に向き合っている。

 

孤独である理由を人並み外れた力のせいにしていた治であったが、本当はそうではなかったことに気がつく。

疎外される中でいつしか失われた人を信じる気持ち。

自らが他者を信じることを放棄していたからこそ孤独であったことを、治は妖怪たちとの交流を通して知った。

 

難しい台詞はない、子どもが見てもわかる話である。

逆に子どもが見るからこそ、言語化するのが難しい心理描写も平易な表現を使うことに徹底していたことは素晴らしかったと思う。

 

孤独な主人公が自分自身と向き合っていく姿は、どことなく『新世紀エヴァンゲリオン』を彷彿とさせる。

同じような主題でも、作る人が違えばこんなにも表現の形が沢山あるのだとエンタメというものの幅広さを感じた。

 

治との戦い、そして百鬼夜行で歌う猫娘の声を聞いた妖狐は自身の負けを認める。

師である天狗が妖狐に言った「お前は焦りすぎた」の言葉が深い。

妖狐が焦ったのは何だったのだろうか。

他者と歩み寄れないこと、それでも理解する努力を早々に放棄したこと、結果を求めすぎたこと。

恐らくそうしたことの全てだったのかもしれない。

 

私もそうだと思った。

理解してもらいたかった。理解したかった。それができなかったから諦めた。

できている他人を見るのが羨ましかったし、できない自分が劣っている人間だといわれているようで屈辱だった。

 

仕方がない。人間はそれぞれ違う。

時間がかからず他人と理解し合える人もいるだろう。それが不得意な人間もいる。

相手との関係が思うようにいかなくても、早々と見切りをつける必要などなかったのだ。

 

あるいは、理解し合えているように見えた他人同士も本当はそうじゃなかったのかもしれない。

本当のところなんていくら考えてもわからない。

だから私は私のことを精一杯やればよかったのに、それさえ放棄した。

 

自分の人生を振り返れば、私は外に出ていながらその実は引きこもりだった。

最近は孤独を勧める意見もあるようだが、本当に一人が好きな人以外は孤独はあまりお勧めしない。

そのしんどさは身にしみている。

誰も死なない物語

観終わってふと気がついたのだが、本作には死亡する登場人物が誰もいない。

これは何気に凄いことだ。

『死』は確かに物語を盛り上げるには大きな効果を発揮する。

だがそれ故に、エンタメ作品の中では「はたしてその構成にする必要があるのだろうか」と感じる死が描かれることも少なくはない。

 

そういった意味では本作はとても優しい物語だ。しかし、だからといって決して甘い物語でもない。

改心し、妖怪世界で生きていく決意をした妖狐だったが他人を理解していくことは苦難の道かもしれない。

恐らく人と理解し合うことに近道はない。地道な努力がいる。簡単に諦めない強さがいる。

思い通りの結果にならなくても、それと上手く付き合っていく柔軟さも。

 

会場に観に来ていた子どもたちにはまだわからないかもしれない。

だけどその子たちがいつか大人になった時に、そういったことを想像させる隙間がある本作を思い出してほしいと思った。

「猫娘可愛い!」

「猫娘可愛い!」

子どもの声が聞こえた。

(そうだろう。この猫娘はとっても可愛いんだぞ)

心の中で私はそう思った。芝居を観ている途中だというのに、その子の声に思わずニコニコしてしまう。

猫娘が草むらに隠れて治と天狗の会話をこっそり盗み聞きする場面がある。

少しだけ顔を出しながらうなずいたり首をかしげたりする仕草も可愛らしい。

 

一番最初に彼女の舞台を観た時も、立ち位置が端っこでありながらも気を抜かず芝居を続けるプロの姿勢を凄いと思った。

時間は経ってしまったが、昨日のことのように覚えている。

 

「理解されるのが怖いんでしょう」

妖怪世界に来たばかりで、周囲と馴染もうとしない治に猫娘がそう問いかける場面がある。

 

「怖いよ・・・・・・ 怖いんだよ、智尋さん」

文字にしてみれば情けないことこの上ない。だけど、心の中で反射的に私は答えていた。

 

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太陽を追いかけて 〜舞台演劇『妖怪事変』感想〜 序章

 

はじめに

劇団テンペストの舞台演劇『妖怪事変』の感想を書くにあたり、最初に記さなければならないことがある。

本作に関してはさまざまな事情から、これまで書いた演劇感想のような「ここは良かった、ここはいまいちだった」といった感想は書くことはできない。

その理由としては、本作のテーマがあまりにも今の自分にリンクしていたこと。

そして記事の中心である猫娘役の女優・今中智尋について、本作の感想を書くということは、彼女を応援してきた私自身について書くということに他ならないからである。

したがってこの記事は、演劇関係者でもないただの一般人の心情が多くを占めることになる。

純粋に作品の感想を読みたい人の期待に応える記事にはなっていないことを、予め理解していただければと思う。

私と今中智尋

出会い、それからの日々

今中智尋の演技を初めて見たのは『AND TO THE LEGENDARY 陰陽道』並びに『LEGENDARY 桃源郷』という作品だった。

桃太郎という昔話で良く知られたキャラクター、しかも男性役を元気よく演じる姿が爽やかだったのを覚えている。

博多座などで公演される大規模な演劇以外の、いわゆる地域演劇を知らなかった私にとって、彼女との出会いは大きなカルチャーショックだった。

というのも、それまでの私の認識は俳優とは東京でテレビや映画、舞台などに出演している人々を示す言葉。

それ故に日本のさまざまな場所に、その土地を中心に活動している俳優と呼ばれる人々がいることに馴染みがなかった。

 

遠くの世界の人でもあり、同時にとても身近な場所にいる人。

 

上演後の物販などで普通に話すことのできる俳優たち。

役者という仕事を自分とは生きている世界そのものが違う、とても遠いものと考えていた私にとって、地域演劇はその認識を覆した不思議な空間だった。

その中で、まるで太陽のような存在感を放つ今中智尋という女優に私は惹きつけられた。

彼女と出会ってから、私は彼女が出演する作品にはできるだけ足を運ぶようになる。

私が知る以前から彼女はさまざまな作品に出演しており、これまでの活動の全てを知るわけではなかったが、一作ごとに新しい役柄に挑戦して自身を広げていく彼女を追うのが楽しかった。

 

今中智尋を知ってから今回の妖怪事変を観るまでの数年間。それは新型コロナウイルスの時代でもあった。

ライブやイベントなどの催し物がほとんど開催されない時代があったことは記憶に新しい。

エンターテインメントの世界で生きる彼女も、表には出さなくとも苦しい思いもたくさしたと思う。

『応援している』と言うことは容易い。

しかし、彼女と同じ芸能の世界に生きるているわけでもない私にしてあげられることはほとんどなかった。

できることはひたすらに彼女が元気で、そしてまた作品に出てくれることを祈ることだけだった。

そう願っていた人はきっとたくさんいたのだろう。彼女は過酷な時代の中でも、歩みを止めることなく女優の活動を続けてくれた。

そのことが私は嬉しかった。

広がる出会い

今中智尋の作品を追う中で、私の心の中で一つの変化が起きた。それは地域演劇への興味が生まれたこと。

彼女が出演した作品の感想をブログに書いていたが、次第に出演者から反応をもらうようになり、観劇に行くとブログの人として存在を認識してもらえるようになった。

それはブログを読んでいただいた出演者だけでなく、長く劇団や俳優たちを応援しているファンの方々からも同様であり、次第に私を知ってくださる人が増えていった。

SNSで出演者をフォローし日々の活動を見てみる。それを見ていると出演作の情報が入り、行って感想を書いて別の作品を観に行って新しい演者を知る。

バズった記事などほとんどない私にとって、思いのほか自分が認知されていることが意外でもあり同時に嬉しかった。

自分の世界が広がっていくようで高揚感を覚えた。

そのことは人見知りで人付き合いが得意ではない自分にとって、まさに心から望んだものであった。

人生を閉ざすことだけが得意な愚か者

子どもの頃から人間のことがわからなかった。

などと書けば何をエヴァンゲリオンの碇ゲンドウのようなことを、と思われるかもしれない。

しかし自分を表現する時に、その事実を捻じ曲げて語ることはできない。

幼少期の忘れられない出来事として、保育園の頃に「カッコつけ」と同じクラスの男の子から言われ何ともいえない気持ちになった時期がある。

その時は担当の先生がその男の子を注意したか何かで言われることはなくなったが、それから妙に心の中で自分と他者との間に距離があると感じるようになった。

 

それから小学生くらいまではまだ良かったと思う。まだ普通に人付き合いができていた。

問題は思春期に入ってから。

事細かく書くと膨大な量になるので多くは割愛するが、私は自分の好きな特撮や映画の世界に没頭するようになった。それでも中学生の頃はまだ良かった。

高校に入ると出会う人間が増えたこととは逆に、それまで感じたことのなかった孤独感を感じるようになった。

自分が受け入れられていないと思うようになった。

今思えば無理もない。その年齢になって当時の流行り物のことなど知らず、年齢相応の遊びや人付き合いができない私に近づきたいクラスメイトがいるわけがない。

 

なぜ自分は受け入れてもらえないのだろう。

 

当たり前だ。今の私が当時の私のクラスメイトだとしても、絶対に近づきたくない。

下手に近づいてこいつと同類と思われれば最悪だ。

当時の状況はそのような感じであった。

 

大学に入ると多少は人付き合いについては気の合う者もいた。

だがここでも私は、今思えば致命的な問題を起こすことになる。

自分の世界に閉じこもることに慣れきった私には、大学に入ったから、20歳を越えたから世界を広げるという発想がなかった。

酒を飲める年齢になっても酒は悪いことだからと飲もうともせず、恋人を作ろうともしなかった。

 

この当時、ひどい失恋をしたことも後に大学生活の最期まで尾を引くトラウマとなった。

 

それから社会人となった今まで、鳴かず飛ばずの毎日を送ってきた。

かなり端折った内容のため、説明不足の部分も多く恐らく読みづらい内容になっていると思う。

 

はっきりいえることが、私は常に自分から自分の可能性を閉ざす選択をしてきたということだ。

「自分は駄目だから」

常にそう思い生きてきた。実際駄目なこともあった。

失敗するくらいなら最初からやらない。傷つくくらいなら最初から何もしないほうがいい。

 

変えたい、変わりたい。口ではなんとでも言える。

人との出会いには恵まれていた、きっかけはたくさんあった。踏み出す気持ちがなかった。

故郷を離れて長い時間が経つ。だけど結局、今でも私は故郷にいた過去の自分から離れられない甘ったれた子どもに過ぎない。

そして妖怪事変へ

以上、極めて煩雑にではあるが今中智尋を知ってからの日々と私という人間について記してきた。

ここまで読んでくださった心優しい方の中にも、いい年をして自分の愚かさのせいでまともな人間らしいコミニュケーションがわからない男の自分語りに困惑された方もいると思う。

それと『妖怪事変』に何の関係があるかと疑問を抱く人もいるだろう。

妖怪事変という作品は孤独感に苦しむ男の物語であり、それを克服していく過程が描かれている。

それが私の心に大いに刺さった。この話は私に向けて書かれた話ではないかと思うくらい刺さった。

 

同時に今中智尋が演じる猫娘は、希望を持って未来に進んで行こうとする彼女自身そのものであり、少しの時間ではあるが彼女を追いかけてきた者として非常に感慨深いものがあった。

 

今中智尋を知り、彼女をきっかけに沢山の人と出会った。妖怪事変にはそうして出会った俳優たちが多数出演している。

出会った経緯はバラバラでも、全ては今中智尋から始まった出会いだ。

話をして、交流をして私のことを覚えてくださった人たちである。その中に全ての始まりとなった彼女もいる。

 

冷静になれるわけがない。

 

この作品は私にとって今中智尋から始まった数年間の出会いの一つの到達点。

それはまるで、何もない場所から歩きだして太陽を追いかける中で私が出会ったいくつもの星々が、まばゆいばかりの命の輝きを放った宴のようであった。

 

次の記事に続く

 

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ただ旅立つ姿を見守れたらそれでいい

メイドカフェでたくさんの子の旅立ちを見てきて、もう何人見送ったかわからない。

寂しい気持ちはあるにしても、ここ一年ほどは以前にも増して見守っていきたいという気持ちが強くなった。

 

今回卒業する子も前向きな理由での卒業と聞いた。前の自分であればどんな理由でも「卒業しないで」という気持ちが第一だったと思う。

それが今は、ただその子の未来が幸せであってくれたらそれでいいと思う。

 

その子に店で会った回数はそんなに多くはないけれど、店に入ってから今日までたくさんこの場所を支えてきてくれたのだと思う。

お笑いが好きで、素敵な髪の毛の色が印象的な子だった。

常に明るく、短い時間の間でもお客さんを思い笑顔にしてくれた子だった。

 

客だから何をするのが正しいとか、そういうことに絶対的なものはない。

というよりも、ルールを守って遊ぶこと以外は必要なことなどないのかもしれない。

それでも、長く店でメイドの子たちと過ごす中で何かできることはないかと自分なりに考えたこともあった。

 

でも結局わかったことは、自分にできることはただ見守るだけだということ。

メイドの子たちがいつかこの場所を旅立って行く時に、きちんと自分の足で踏み出していけるように見守っていくことが自分にできる最大限のことだ。

 

出会う子たちが自分と出会い何を感じるか、何を思うのか。それはわからない。

プラスな印象を残せれば嬉しいけれど、マイナスな印象を残してしまう時もあるかもしれない。

それでも、そんなマイナスな印象すら世の中にはそういう人間もいるという一つの学びになっていたらそれでいいのではないか。

 

人生は長い。今回卒業する子の未来にも、これからたくさんの出来事が待ち受けている。

色々な人間に出会うだろう。嬉しいことも辛いこともたくさんあるだろう。

悲しいことにぶつかった時に、人間というものがわからなくなる時もあるかもしれない。

 

そんな時は、ここで出会った人たちのことを思い出してほしい。

この世界には色々な人間がいる。それが世界であり現実だ。

そしてきっと、どんなに辛い状況が待ち構えていたとしても彼女のことを理解してくれる人がきっといる。

ここにもそんな人たちがきっといたはずだ。

 

そのことを信じる手助けとなることが、一人の客としての自分にできることだと思いたい。

長いようで短い、その子がメイドとしていた時間だった。

二つの冬が過ぎていった。その間に世界は元に戻りつつある部分と、大きく変化した部分に別れた。

生き辛い時代だ。

 

自分自身のことで日々精一杯。時に他人を思う気持ちも忘れそうになる。

それでも覚えておきたい。この場所で出会った笑顔の素敵な子のことを。

どうかいつまでも忘れないでほしい。

ここで出会ったたくさんの人たちのことを。

 

この店でのメイドとしてのお給仕事本当にお疲れさまでした。

次の世界に向かって行ってらっしゃいませ。

 

 

Seria(セリア)で買ってよかったもの

同じ部屋に10年近く住み続けていると物が増える。

それは何も大きなものに限った話ではなく、小さな物も確実に増えてくる。

特に増えたものがカード類。クレジットカードをはじめ病院の診察カード、ポイントカードなどなど。

 

実はそのうちポイントカードに関してはモバイルで使えるものも多いので、実質的には使っていないものが大半。

だけど万が一スマホが使えない状況、アプリに障害が起きた状況に備えて一応持っておきたいのが自分の心情。

 

そうやって適当な袋に入れて保存していたら、まあ何がどこにあるかわからない。

何でも風水学的には、財布にはあまりポイントカードや交通系ICカードは入れない方がいいらしい。

熱心な風水好きというわけではないけれど、使わないもので財布をパンパンにするのも嫌なので100円ショップSeria(セリア)へ。

購入したのは一般的な大きさのカードなら20枚入るカード入れ。

留めるためのボタンが付いていないのがちょっと不満点だけど、外で使うのが目的でなく、家でほとんど使わないカードを保存するのが目的なので機能的にはこれで満足。

もう一つが通帳入れ。

通帳が2冊まで入り、カードも4枚まで入れることが可能。

大きさと厚みもあるので、外に持ち出すときも安心感を持って持っていくことができます。

 

こういう商品も値段のするものはたくさんあるけど、Seriaの商品は「本当に100円!?」と感じるくらいクオリティが高い。

今後も長く愛用していきたいと思った。

 

 

劇場総集編『SSSS.DYNAZENON』感想

『SSSS.DYNAZENON』は放送当時(配信で見たからこの言い方で正しいかわからないけど)見ていました。

それ以来見返していなかったので、今回の劇場総集編を観ている中で「こういう話だったのか!」と意外と新鮮な気持ちになりました。

 

何といってもダイナゼノンの迫力ある戦闘シーンはスクリーン映えしていましたね。

もちろん前作の『SSSS.GRIDMAN』も迫力ある作品でしたが、大きな鉄の塊が動き回る重厚感は本作ならではの個性だったと思います。

 

あと改めて思ったのが、アニメに登場する怪獣はリアリティよりも派手さを追求すればするほど印象が強くなるんだと思いました。

あくまで自分の感覚ですが、実写特撮に登場する怪獣はシンプルな見た目でも強い印象を残せる。

それは特にウルトラマンやウルトラセブンに登場した怪獣たちを見ていて感じたのですが、アニメになるとシンプルなだけでは印象を残すのは難しい。

 

それが何故かと考えたのですが、やはりアニメだとどんなに技術が進歩しても実写のような『生命力』が感じられないんですよね。

それは言い換えると、怪獣を演じているスーツアクターさんの演技力のことなんですが、アニメだとそれがどうやっても計算された動きにしかならない。

逆に言うと、実写特撮に登場したら違和感のあるようなカラーリングや造形の怪獣でもアニメならいくら登場しても違和感がない。

 

SSSSシリーズを通して見ることで、自分なりにアニメに登場する怪獣について何が魅力的に感じるのかを考えることができたのは良かったです。

 

一方でストーリーの方に目を向けると、カットされていた部分も多かったように感じており、この映画で『SSSS.DYNAZENON』に初めて触れた人は少し困惑するんじゃないかと思いました。

 

ガウマの正体に関する部分とか、暦の同級生の話とかけっこうバッサリ切られていましたね。

もちろん元の作品を観ていたら話は分かるし、映画を観に来る人はほとんどが作品を見たことある人たちなのでしょうがその辺は賛否が分かれそう。

 

その代わり、作品の焦点が蓬と夢芽の2人に当てられていて、互いの距離が近づいていく過程が分かりやすく描かれていたのは良かったと思います。

少年と少女の恋愛模様は『SSSS.GRIDMAN』とは違う個性を本作に与えることに貢献しており、全ての始まりである『電光超人グリッドマン』にもあった爽やかさが時代を越えて本作にも受け継がれているんだと感じることができました。

 

あと、姉の真実を夢芽が知ることができたのはある意味では怪獣のおかげだよなと思いました。

ガルニクスがいたから夢芽は真実にたどり着けた。怪獣を倒しながらも、怪獣がいなかったらこういう結末に至れなかったんだよなと思うとどこか皮肉に感じます。

 

でもこれって見方を変えると「怪獣との遭遇という怖いことも、自分の意志によってプラスに変えていくことができるんだよ」ということなんだと思います。

実際に怪獣の出現によってガウマや蓬たちは出会い、絆を深め成長していった。

現実でも色々大変なことはあるけど、その中には悪いことだけじゃなくて良いこともきっと存在しているんだと。

だから蓬が何度壁に阻まれても夢芽の元に行こうとしたように、あきらめないで頑張っいこうよと。

 

そんなメッセージを感じることができました。

これは連続してずっと話を見ることのできる映画だからこそ、ストレートに感じることができたことだと思います。

 

個人的にはキャラクターの個性とか作品のまとまり具合では『SSSS.GRIDMAN』の方が好きなのですが、各キャラクターのドラマに関しては『SSSS.DYNAZENON』の方が好きです。

 

そして、そんなそれぞれの魅力を持った2つの作品のキャラクターたちが出会った時にどんな物語が生まれるのか。

『グリッドマンユニバース』の公開が楽しみです。