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太陽を追いかけて 〜舞台演劇『妖怪事変』感想〜 その1

 

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『妖怪事変』という作品

ストーリー

『妖怪事変』は人並み外れた強さ故に恐れられ、孤独に生きる主人公・治(おさむ)の物語だ。

人々から疎外されている治だが、その心には優しさも持っており豆太という弟分がいる。

 

ある日治は町で一人の娘を助ける。

だがそれにより、怪我を負わせた町のゴロツキから話を聞いた役人に責められることになる。

孤独に育ち、人助けをしても周囲から受け入れられないことに苛立ちと絶望を感じる治。そんな彼の耳にある日奇妙な声が聞こえてくる。

 

その声に導かれるままに不思議な壺を開ける治。気を失い、目を覚ました彼の目の前には妖怪たちが生きる不思議な世界があった・・・・・

作品の魅力

本作の魅力を一言で表現するなら「何でもあり」ということに尽きるだろう。

妖怪というキャラクターの面白さをはじめ、多数のダンサーたちによる魅惑的なダンスシーンや俳優陣によるアクションシーン。

さらに各俳優の特技を活かした日本舞踊や大道芸、歌に至るまで、まるで幕の内弁当のようにさまざまな要素がぎっしりと詰め込まれている。

 

ポイントとなるのが、こうした要素が物語の展開ときちんと結びついて登場してくることである。

例えばダンスシーンは妖怪世界のショーパブのような場所で行われているという設定だ。そこには当然その場所で展開されるドラマがある。

ド派手なパフォーマンスは観客を飽きさせないための工夫の一つだが、それを無理に織り込もうとして世界観を壊してしまう可能性を持つ諸刃の剣でもある。

 

映画やドラマなどの完成された作品と違い、生身の人間が目の前で演じるのが舞台演劇の面白さだ。

作品によっては、目の前で第四の壁を壊が壊されることにより生まれる面白さも確かにある。

だが個人的に、パフォーマンスを世界観の中で自然に登場させる本作の脚本はとてもよく練られていると感じた。

それにより、全体を振り返って「あの場面だけ話の中で妙に浮いていた」と感じた場面が本作にはない。

 

物語後半のメインとなるのは、妖怪たちにとって大切な儀式である百鬼夜行。

本作では妖怪たちによる派手な祭りとという意味合いで行われるが、祭りだからこそ唐突に大道芸やダンスが始まっても違和感がない。

その中には、何と妖怪世界のアイドルによるライブまである。

楽しい。シンプルに妖怪事変は楽しい作品なのである。それはまるでディズニーランドのように(といっても、私は行ったことはないのだが)。

 

しかしながら、こうしたパフォーマンスはあくまで作品の要素の一つに過ぎない。

 

本作の主題は、孤独な治が妖怪と出会い成長していく過程だ。作中で最も治と深く関わるのは今中智尋が演じる猫娘。

歌うことが生きる理由と語る猫娘と出会い、他の妖怪とも交流する中で治は次第にそれまでの自分の態度を改めていくことになる。

ただ一つの夢

生涯唯一の脚本

子どもの頃になりたかった職業を夢というのなら、私の人生の中で唯一なりたいと思った夢は脚本家だった。そのことは小学校の卒業文集にも書いた。

小学校6年生の時だったが、学年最後の発表会か何かで劇をすることになり脚本を書いた記憶がある。

今思えばできあがったそれは、脚本には程遠い子どもの稚拙な書き物にすぎなかった。

最終的にクラスメイトや担任教師による書き直しを受けたそれは、私が書いたものとは全く別のものとして上演されることになる。

自分の書いたものと違うものになったというのに、私には不思議と嫌な気持ちはしなかった。

自分で頭を捻り物語を作り、それが形となる面白さ。

夜遅くまで起きて作業していることに対する、自分がどこか大人になったような感覚。

何より自分が脚本を書くことが誰かのためになるのだという幸福感。

そうしたものを確かに感じていたと思う。そこには確かに熱意があった。

 

それが私が人生で脚本というものを書いたただ一度の経験だった。

それ以来、脚本を書いたことはない。

自分の世界を閉ざす中で、脚本家になりたいという夢は忘れていった。

 

いや、それは正確ではないかもしれない。

自分がやりたいことが何なのか考える時はたくさんあった。

やろうと思えば選択できる機会もきっとあった。

それでも何一つやろうともしなかったのは、ひとえに自分が世界を閉ざしたことにより自分で自分の可能性を潰したからに他ならない。

 

人と思うように付き合えず、世間で一般にイメージされるところの花火大会に行ったり海に行ったり、恋人と気ままに出かけるような青春を過ごせなかった経験。

それによる人生への失望。自分では努力したつもりでも何ら良い結果の起こらない絶望。

 

そして自分の人生を支配した一つの考え・・・・・・ 何をしても無駄

 

もともと諦め癖はあったと思う。何かを長く続けるのは苦手だった。努力するのも苦手だ。

自分でも思い出せないある時から、私は何かに挑戦することを止めた。

何かに踏み出しても、心の奥底では「どうせ無駄なこと」と冷めていたと思う。

 

その結果私は『信じる』というのが何なのかわからなくなった。

 

仕事を探す過程でもっともらしい志望理由を探す。相手先に合わせただけの中身のない言葉。

目的などなく、ただ月々の生活費のためだけに行う仕事。

あの稚拙な脚本もどきを書いた時のような熱は一ミリもない。

ありふれた、どこにでもある話

今でも強烈に覚えているが、客先で必要な作業をしている時に足りないことを指摘する度に、それが必要なことであるにも関わらずまるで敵が来たといわんとばかりに責め立てられたことがある。

しかもその客先というのが、いわゆる世間的には立派な職業と呼ばれている場所で、実際に多くの人の助けにはなっているのだが私に対しての態度は好意的とはいえなかった。

もちろん私に非のある時もあっただろう。

だが世間から見れば、称賛と感謝の念を集めるのはその客先であり私が何をしたところで誰かが認めてくれるわけではない。

 

世の中などそんなもの。今はそれがわかる。

腹は立つがこの世界にありふれたどこにでもある話だ。

そうした相手にしがみつかなくては、明日の食事にすらありつけない。

 

私は一体何のために生きているのだろうと悲しくなった。

本作が伝えたかったこと

孤独になる理由

治の頭の中に響く声の正体は、かって妖怪世界を征服しようとして封印された妖怪・妖狐であった。

孤独感から力を求めたこの妖狐こそ、赤子の頃に母親に捨てられた治に剣を教え、彼に人並み外れた力を授けた元凶である。

猫娘をさらった妖狐は彼女を助けに来た治と対決する。

その中で両者は互いにとっての『生きる理由』に向き合っていく。

 

生きる理由ほど全人類にとって頭を悩ませるものはないだろう。

恐らく人間として生まれた以上、誰もが一度は考えたことがあるのではないだろうか。

その命題に対して本作は真摯に向き合っている。

 

孤独である理由を人並み外れた力のせいにしていた治であったが、本当はそうではなかったことに気がつく。

疎外される中でいつしか失われた人を信じる気持ち。

自らが他者を信じることを放棄していたからこそ孤独であったことを、治は妖怪たちとの交流を通して知った。

 

難しい台詞はない、子どもが見てもわかる話である。

逆に子どもが見るからこそ、言語化するのが難しい心理描写も平易な表現を使うことに徹底していたことは素晴らしかったと思う。

 

孤独な主人公が自分自身と向き合っていく姿は、どことなく『新世紀エヴァンゲリオン』を彷彿とさせる。

同じような主題でも、作る人が違えばこんなにも表現の形が沢山あるのだとエンタメというものの幅広さを感じた。

 

治との戦い、そして百鬼夜行で歌う猫娘の声を聞いた妖狐は自身の負けを認める。

師である天狗が妖狐に言った「お前は焦りすぎた」の言葉が深い。

妖狐が焦ったのは何だったのだろうか。

他者と歩み寄れないこと、それでも理解する努力を早々に放棄したこと、結果を求めすぎたこと。

恐らくそうしたことの全てだったのかもしれない。

 

私もそうだと思った。

理解してもらいたかった。理解したかった。それができなかったから諦めた。

できている他人を見るのが羨ましかったし、できない自分が劣っている人間だといわれているようで屈辱だった。

 

仕方がない。人間はそれぞれ違う。

時間がかからず他人と理解し合える人もいるだろう。それが不得意な人間もいる。

相手との関係が思うようにいかなくても、早々と見切りをつける必要などなかったのだ。

 

あるいは、理解し合えているように見えた他人同士も本当はそうじゃなかったのかもしれない。

本当のところなんていくら考えてもわからない。

だから私は私のことを精一杯やればよかったのに、それさえ放棄した。

 

自分の人生を振り返れば、私は外に出ていながらその実は引きこもりだった。

最近は孤独を勧める意見もあるようだが、本当に一人が好きな人以外は孤独はあまりお勧めしない。

そのしんどさは身にしみている。

誰も死なない物語

観終わってふと気がついたのだが、本作には死亡する登場人物が誰もいない。

これは何気に凄いことだ。

『死』は確かに物語を盛り上げるには大きな効果を発揮する。

だがそれ故に、エンタメ作品の中では「はたしてその構成にする必要があるのだろうか」と感じる死が描かれることも少なくはない。

 

そういった意味では本作はとても優しい物語だ。しかし、だからといって決して甘い物語でもない。

改心し、妖怪世界で生きていく決意をした妖狐だったが他人を理解していくことは苦難の道かもしれない。

恐らく人と理解し合うことに近道はない。地道な努力がいる。簡単に諦めない強さがいる。

思い通りの結果にならなくても、それと上手く付き合っていく柔軟さも。

 

会場に観に来ていた子どもたちにはまだわからないかもしれない。

だけどその子たちがいつか大人になった時に、そういったことを想像させる隙間がある本作を思い出してほしいと思った。

「猫娘可愛い!」

「猫娘可愛い!」

子どもの声が聞こえた。

(そうだろう。この猫娘はとっても可愛いんだぞ)

心の中で私はそう思った。芝居を観ている途中だというのに、その子の声に思わずニコニコしてしまう。

猫娘が草むらに隠れて治と天狗の会話をこっそり盗み聞きする場面がある。

少しだけ顔を出しながらうなずいたり首をかしげたりする仕草も可愛らしい。

 

一番最初に彼女の舞台を観た時も、立ち位置が端っこでありながらも気を抜かず芝居を続けるプロの姿勢を凄いと思った。

時間は経ってしまったが、昨日のことのように覚えている。

 

「理解されるのが怖いんでしょう」

妖怪世界に来たばかりで、周囲と馴染もうとしない治に猫娘がそう問いかける場面がある。

 

「怖いよ・・・・・・ 怖いんだよ、智尋さん」

文字にしてみれば情けないことこの上ない。だけど、心の中で反射的に私は答えていた。

 

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