ネコはミカンを片手に夜明けを待つ

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太陽を追いかけて 〜舞台演劇『妖怪事変』感想〜 序章

 

はじめに

劇団テンペストの舞台演劇『妖怪事変』の感想を書くにあたり、最初に記さなければならないことがある。

本作に関してはさまざまな事情から、これまで書いた演劇感想のような「ここは良かった、ここはいまいちだった」といった感想は書くことはできない。

その理由としては、本作のテーマがあまりにも今の自分にリンクしていたこと。

そして記事の中心である猫娘役の女優・今中智尋について、本作の感想を書くということは、彼女を応援してきた私自身について書くということに他ならないからである。

したがってこの記事は、演劇関係者でもないただの一般人の心情が多くを占めることになる。

純粋に作品の感想を読みたい人の期待に応える記事にはなっていないことを、予め理解していただければと思う。

私と今中智尋

出会い、それからの日々

今中智尋の演技を初めて見たのは『AND TO THE LEGENDARY 陰陽道』並びに『LEGENDARY 桃源郷』という作品だった。

桃太郎という昔話で良く知られたキャラクター、しかも男性役を元気よく演じる姿が爽やかだったのを覚えている。

博多座などで公演される大規模な演劇以外の、いわゆる地域演劇を知らなかった私にとって、彼女との出会いは大きなカルチャーショックだった。

というのも、それまでの私の認識は俳優とは東京でテレビや映画、舞台などに出演している人々を示す言葉。

それ故に日本のさまざまな場所に、その土地を中心に活動している俳優と呼ばれる人々がいることに馴染みがなかった。

 

遠くの世界の人でもあり、同時にとても身近な場所にいる人。

 

上演後の物販などで普通に話すことのできる俳優たち。

役者という仕事を自分とは生きている世界そのものが違う、とても遠いものと考えていた私にとって、地域演劇はその認識を覆した不思議な空間だった。

その中で、まるで太陽のような存在感を放つ今中智尋という女優に私は惹きつけられた。

彼女と出会ってから、私は彼女が出演する作品にはできるだけ足を運ぶようになる。

私が知る以前から彼女はさまざまな作品に出演しており、これまでの活動の全てを知るわけではなかったが、一作ごとに新しい役柄に挑戦して自身を広げていく彼女を追うのが楽しかった。

 

今中智尋を知ってから今回の妖怪事変を観るまでの数年間。それは新型コロナウイルスの時代でもあった。

ライブやイベントなどの催し物がほとんど開催されない時代があったことは記憶に新しい。

エンターテインメントの世界で生きる彼女も、表には出さなくとも苦しい思いもたくさしたと思う。

『応援している』と言うことは容易い。

しかし、彼女と同じ芸能の世界に生きるているわけでもない私にしてあげられることはほとんどなかった。

できることはひたすらに彼女が元気で、そしてまた作品に出てくれることを祈ることだけだった。

そう願っていた人はきっとたくさんいたのだろう。彼女は過酷な時代の中でも、歩みを止めることなく女優の活動を続けてくれた。

そのことが私は嬉しかった。

広がる出会い

今中智尋の作品を追う中で、私の心の中で一つの変化が起きた。それは地域演劇への興味が生まれたこと。

彼女が出演した作品の感想をブログに書いていたが、次第に出演者から反応をもらうようになり、観劇に行くとブログの人として存在を認識してもらえるようになった。

それはブログを読んでいただいた出演者だけでなく、長く劇団や俳優たちを応援しているファンの方々からも同様であり、次第に私を知ってくださる人が増えていった。

SNSで出演者をフォローし日々の活動を見てみる。それを見ていると出演作の情報が入り、行って感想を書いて別の作品を観に行って新しい演者を知る。

バズった記事などほとんどない私にとって、思いのほか自分が認知されていることが意外でもあり同時に嬉しかった。

自分の世界が広がっていくようで高揚感を覚えた。

そのことは人見知りで人付き合いが得意ではない自分にとって、まさに心から望んだものであった。

人生を閉ざすことだけが得意な愚か者

子どもの頃から人間のことがわからなかった。

などと書けば何をエヴァンゲリオンの碇ゲンドウのようなことを、と思われるかもしれない。

しかし自分を表現する時に、その事実を捻じ曲げて語ることはできない。

幼少期の忘れられない出来事として、保育園の頃に「カッコつけ」と同じクラスの男の子から言われ何ともいえない気持ちになった時期がある。

その時は担当の先生がその男の子を注意したか何かで言われることはなくなったが、それから妙に心の中で自分と他者との間に距離があると感じるようになった。

 

それから小学生くらいまではまだ良かったと思う。まだ普通に人付き合いができていた。

問題は思春期に入ってから。

事細かく書くと膨大な量になるので多くは割愛するが、私は自分の好きな特撮や映画の世界に没頭するようになった。それでも中学生の頃はまだ良かった。

高校に入ると出会う人間が増えたこととは逆に、それまで感じたことのなかった孤独感を感じるようになった。

自分が受け入れられていないと思うようになった。

今思えば無理もない。その年齢になって当時の流行り物のことなど知らず、年齢相応の遊びや人付き合いができない私に近づきたいクラスメイトがいるわけがない。

 

なぜ自分は受け入れてもらえないのだろう。

 

当たり前だ。今の私が当時の私のクラスメイトだとしても、絶対に近づきたくない。

下手に近づいてこいつと同類と思われれば最悪だ。

当時の状況はそのような感じであった。

 

大学に入ると多少は人付き合いについては気の合う者もいた。

だがここでも私は、今思えば致命的な問題を起こすことになる。

自分の世界に閉じこもることに慣れきった私には、大学に入ったから、20歳を越えたから世界を広げるという発想がなかった。

酒を飲める年齢になっても酒は悪いことだからと飲もうともせず、恋人を作ろうともしなかった。

 

この当時、ひどい失恋をしたことも後に大学生活の最期まで尾を引くトラウマとなった。

 

それから社会人となった今まで、鳴かず飛ばずの毎日を送ってきた。

かなり端折った内容のため、説明不足の部分も多く恐らく読みづらい内容になっていると思う。

 

はっきりいえることが、私は常に自分から自分の可能性を閉ざす選択をしてきたということだ。

「自分は駄目だから」

常にそう思い生きてきた。実際駄目なこともあった。

失敗するくらいなら最初からやらない。傷つくくらいなら最初から何もしないほうがいい。

 

変えたい、変わりたい。口ではなんとでも言える。

人との出会いには恵まれていた、きっかけはたくさんあった。踏み出す気持ちがなかった。

故郷を離れて長い時間が経つ。だけど結局、今でも私は故郷にいた過去の自分から離れられない甘ったれた子どもに過ぎない。

そして妖怪事変へ

以上、極めて煩雑にではあるが今中智尋を知ってからの日々と私という人間について記してきた。

ここまで読んでくださった心優しい方の中にも、いい年をして自分の愚かさのせいでまともな人間らしいコミニュケーションがわからない男の自分語りに困惑された方もいると思う。

それと『妖怪事変』に何の関係があるかと疑問を抱く人もいるだろう。

妖怪事変という作品は孤独感に苦しむ男の物語であり、それを克服していく過程が描かれている。

それが私の心に大いに刺さった。この話は私に向けて書かれた話ではないかと思うくらい刺さった。

 

同時に今中智尋が演じる猫娘は、希望を持って未来に進んで行こうとする彼女自身そのものであり、少しの時間ではあるが彼女を追いかけてきた者として非常に感慨深いものがあった。

 

今中智尋を知り、彼女をきっかけに沢山の人と出会った。妖怪事変にはそうして出会った俳優たちが多数出演している。

出会った経緯はバラバラでも、全ては今中智尋から始まった出会いだ。

話をして、交流をして私のことを覚えてくださった人たちである。その中に全ての始まりとなった彼女もいる。

 

冷静になれるわけがない。

 

この作品は私にとって今中智尋から始まった数年間の出会いの一つの到達点。

それはまるで、何もない場所から歩きだして太陽を追いかける中で私が出会ったいくつもの星々が、まばゆいばかりの命の輝きを放った宴のようであった。

 

次の記事に続く

 

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