ネコはミカンを片手に夜明けを待つ

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舞台感想「大正くるま浪漫〜矢野倖一の挑戦〜」

「矢野特殊自動車」の創業者である矢野倖一(やのこういち)は福岡県の芦屋町の出身です。

矢野特殊自動車はタンクローリーなどの特殊車両を製造している会社ですが、その原点となったのは矢野倖一が作り上げたアロー号という車でした。

 

このアロー号は現存する日本最古の国産車で、実業家の村上義太郎の頼みを受けて矢野が3年の月日をかけて開発しました。

このアロー号完成までのドラマを描いた舞台演劇が「大正くるま浪漫〜矢野倖一の挑戦〜」です。

福岡を中心に活動する「劇団ショーマンシップ」による本作は過去に上演された作品ですが、今回2023年秋に再演されました。

芝居だけでなく歌やダンスシーンが多く描かれており、老若男女問わず楽しめる作品となっていました。

 

物語は矢野と村上の出会いからアロー号開発までの苦闘の日々、村上のもので働く人々との交流、矢野が周囲を巻き込みやがてアロー号の完成に至るまでの過程が描かれます。

舞台となるのは主に作業工房ですが、実際に車の造形物が登場し役者がそれに乗り芝居をすることでダイナミックな芝居が展開されていました。

 

本作を観て感じられたことは「希望」でした。

実業家の村上のもとでは車力の男たちが働いています。彼らは車が開発されると自分たちの仕事がなくなると考え、最初は矢野と反目します。

特に古澤大輔さん演じる車力の親方が厳しく矢野に当たるんですけど、こういう話は現代のAIの発展に通じるものを感じました。

 

結局のところ開発されたものが何であれ、人間の歴史は常にそれまでの世の中の形が崩れる不安とそれに適応することで今日まで続いてきた。

もちろんその過程でたくさんの問題はあったと思います。

親方が危惧したように、新しい時代の流れに対応できず仕事を失った人々もいたでしょう。

 

それでも世の中は続いてきている。それって人間にはちゃんと変化を受け入れる力があるという何よりの証明だから、色々な不安はあるけどこれからも何とかなるのではないか。そういう希望を本作を観て感じました。

 

希望はもう一つあって、それは人間は素晴らしいということ。

アロー号が完成するまでには苦難の連続で、矢野も自分を見失うくらい追い込まれてしまう時もありました。

その時に矢野を支え導いたのが村上邸で働く人々です。

気持ちいいくらい王道的な話なんですが、特にソフィアさんが演じる女性に心を救われることになります。

俳優としてさまざまな舞台に出演しているソフィアさんですが、本作では村上邸で働く女中の役でした。

彼女の矢野への気持ちが恋心なのかどうか、それが分かるようで分からない絶妙なテイストだったんですが、個人的にはそこが凄くよかったですね。

もしもハッキリと描かれていたら、話の流れがどうしてもそっちにいってしまうと思うんです。だけど本作の本筋はあくまでアロー号ができるまで。

 

恋愛ドラマと人間ドラマの違いはその本筋がどこに置かれているかによるんですが、本作は子どもの観客も多くいました。

だから観客を想定し、求められているものと伝えたいことを考え練り上げられたストーリーが全年代を対象としたものになっていて観やすかったです。

演者もしっかりとした演技力を持つ方ばかりで、特に村上役の仲谷一志さんはまさに実業家といった素晴らしい貫禄を披露していました。

女中の一人を演じた東沙耶香さんはキュートな雰囲気で素敵でしたし、役柄それぞれに個性があって人間味を感じられてよかったですね。

 

偶然なんでしょうけど今年は自分と大正時代が縁があるというか(関東大震災から100年というのもあるのでしょうが)、「らんまん」「日輪の夢〜伊藤野枝物語〜」「福田村事件」といった作品を観てきました。

「大正くるま浪漫〜矢野倖一の挑戦〜」もそんな中の一作になりましたが、そうした作品群だけでも大正の時代が色々と変化の大きい時代だったことが感じられます。

 

こうした作品で描かれたのは人間の良い一面だけではありませんが、人間の可能性や温かさが描かれた矢野倖一の挑戦は観終わった後に無条件で人を信じたくなる思いに満ちていました。

またいつか再演され、その時々の変化の中にいる観客に観てほしいと思いました。