ネコはミカンを片手に夜明けを待つ

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『仮面ライダーJ』30周年考察:上原昭三が託した「大自然の使者」と「巨大化」に秘められたメッセージ」

 

 

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はじめに:上原昭三が託した"知られざる名作"『仮面ライダーJ』のメッセージ

脚本家の上原昭三が亡くなり5年以上が経過した。

氏についてはウルトラシリーズをはじめ、メタルヒーローシリーズやスーパー戦隊シリーズなど、携わった作品については既に語り尽くされている印象がある。

 

よってこの記事では"知られざる名作"にスポットを当てることで、改めて上原氏が残した作品の魅力を考える。

その作品とは2024年に公開30周年をむかえた『仮面ライダーJ』だ。

 

『真仮面ライダー序章』『仮面ライダーZO』に続くネオライダー3作目にして最終作であり、当時の仮面ライダー空白期に生まれたこの異色作に上原氏がどのようなメッセージを込めたのかを考察したい。

『仮面ライダーJ』作品解説:ネオライダー最終作

『仮面ライダーJ』は1994年に公開された劇場用作品だ。

監督は牙狼シリーズで知られる雨宮慶太

同年に放送されていた「忍者戦隊カクレンジャー」と「ブルースワット」の劇場版と合わせ東映スーパーヒーローフェアという特撮ヒーローで構成された映画プログラムのメイン作品として上映された。

 

今作は1993年に劇場公開された「仮面ライダーZO」と1992年にオリジナルビデオとして展開された「真・仮面ライダー序章」とともに『ネオライダー』と呼ばれている。

 

J公開当時は仮面ライダーBLACK RX以降、仮面ライダーシリーズのテレビ放送が中断していた空白期。

俗に『昭和ライダー』と呼ばれる作品群から、仮面ライダークウガ以降の『平成ライダー』と呼ばれる作品郡への過渡期となる時代であった。

 

なお仮面ライダーJが公開された時代は平成だが、区分上ネオライダーは昭和ライダーに分類されている。

『仮面ライダーJ』あらすじ:地球の命運を賭けた壮絶な戦い

過去に恐竜を全滅させた宇宙怪物集団「フォッグ」が再び地球に来襲。 その目的は首領であるフォッグ・マザーの体内にある無数の怪物の卵を孵化させ、地球の全生物を滅ぼすことにあった。

そのために必要な生贄の儀式のため、自然を愛する少女「木村加那(きむらかな)」が狙われる。 取材の過程で加那と知り合った環境カメラマン「瀬川耕司(せがわこうじ)」は、突如現れたフォッグの攻撃を受け加那をさらわれ自らも命を奪われてしまう。

絶命した耕司は「地空人(ちくうじん)」と呼ばれる地中に住む人々の手で仮面ライダーJとして蘇生され、加那を取り戻すために地球の力・Jパワーでフォッグに戦いを挑む。

仮面ライダーZOとの比較:対照的なヒーロー像が示すもの

今作は上映時間46分の短い時間の中でスピーディーに物語が進んでいく。

今作を考える際に避けて通れないのが前年に公開された仮面ライダーZOの存在である。

元々、ZOの続編企画が様々な理由で別の仮面ライダーが活躍するJになったという経緯もあり、両者のデザインが似ていることはよく知られている。

またZOのストーリーも悪役に狙われる少年をZOが守るという構成であり、少女を救うために戦うJの構成と基本的には共通している。

 

一方でJのストーリーで特徴的なのは、悪役の来襲→瀬川耕司の蘇生によるJの誕生→フォッグとの戦い→エンディング、という流れを上映時間の中で全て取り入れていることにある。

これは、映画のスタートの時点で主人公が既に改造人間だったZOとは対照的だ。

ZOはライダー誕生の過程に割く時間を削る代わりに、人間ドラマパートに重みが置かれていた。

 

一方Jの場合は登場する人物の少なさもあって、ドラマ部分はZOに比べ抑えられたものになっている。

その分内容はアクションシーンの連続であり、敵怪人との戦闘シーンではそれぞれ異なるシチュエーションが用意され、飽きのこない見応えあるシーンになっていた。

 

そして雨宮監督のスピード感ある演出が加わることにより、JはZO以上に低年齢が見て楽しめる作風が強調されている。

『仮面ライダーJ』と「大自然の使者」:地球の力「Jパワー」が持つ意味

Jまでの仮面ライダーは一部の例外を除き「改造人間」である。

普通の人間としての肉体と人生を失い、その悲しみを人類を守る意思に変え、悪の組織に戦いを挑んでいく。

上原氏が初期のメインライターとして携わった「仮面ライダーBLACK」においてもそうした主人公の悲しみや苦悩は描かれていた。

 

しかしJという作品では、瀬川耕司の改造された苦悩はまったく描かれていない。

上映時間の中でそれを描くことが不可能だったのだろうが、結果として加那を取り戻し地球を守るために戦うストレートなヒーロー像を描くことに成功していた。 

 

同時にJには、仮面ライダーの持つ「大自然の使者」という要素が強く強調されている。

最初の仮面ライダーである1号ライダーがバッタの改造人間であることはよく知られている。

原作者の石ノ森章太郎が科学技術を使い地球を支配しようとする悪に対して、その悪から生まれながらも人間の心を無くさなかったヒーローとして1号を創造した。

 

バッタがモデルとなったのは元々「スカルマン」という骸骨をモデルにしたヒーローを構想していたが、それが没になったため骸骨に似たバッタをモデルにしたと言われている。

一方でバッタには科学を用いる悪の組織に、ライダーが大自然の力で戦う存在という要素を加える狙いもあった。

だがこの「大自然の使者」という要素は、ほとんどのライダー作品でさあまり重視されてこなかった。

 

その点『仮面ライダーJ』はこの要素を前面に押し出し、真正面から描き切った唯一のライダーでだ。

Jは地球が持つ力「Jパワー」で戦う。

地球から生まれたヒーローが地球外からやって来た巨大な悪を倒す。

 

私がこの映画を観たのは小学生の時にビデオレンタルでだったが、私が感じたのは「ライダーがいる限り地球は大丈夫」という感想だった。

 

しかし、Jにまったく悲壮感がないかというとそうでもない。

作中、蘇生した耕司が開発で破壊された山を見て心を痛めるシーンがある。作品全体で見るとここだけ、やや浮いた印象を受けるシーンだ。

その後すぐに敵の襲来がありバトルになるため、それ以上そのシーンが深く掘り下げられることはない。

 

上原氏は何の意味も無くこのシーンを入れたのだろうか? 私にはそう思えない。

Jは地球のパワーを持つ存在である。地球の使者と言っても差し支えない。しかし、地球は人間の環境破壊で傷ついている。

つまりこのまま地球環境が破壊され続ければ極端な話、Jが人類の敵になる可能性もありえる。

 

勿論、人間である瀬川耕司が人類に敵対することなどありえないだろうが、Jというヒーローはその存在に矛盾を抱えているように考えれる。

また、時間の都合上仕方ないが巨大な要塞であるフォッグ・マザーが暴れまわる中で、軍隊の出動もなく戦っているのがJだけという状況。

人類が滅びるかどうかの瀬戸際にしては、あまりに人類の存在が薄いように感じる。

 

だが視点を変えるとこうしたシチュエーションは、「地球に生きているのは人類だけではない」と訴える上原氏からのメッセージに感じられる。

耕司を改造した地空人は人間とは異なる生命体だ。地球を守るためならばそうした人類以外の者も外敵と戦わなければならない。

 

今回はフォッグを撃退できたが、このまま環境破壊が続けばいつかまたフォッグのような敵が来たとして、その時Jが戦えるかわからない。

こう考えれば、本作はストレートな作風の裏に人類への警告を隠していたように思える。

 

まるで仮面で本当の姿を隠すように。

 

瀬川耕司自身には改造された悲しみは無いが、人間が地球のパワーを使うということ自体が実は悲しみを含んでいたものではないのか。

Jにもライダーの持つ「悲しみ」の要素が少なからずあったのではないかと気づかされる。

 

上原氏といえば帰ってきたウルトラマンの『怪獣使いと少年』が有名だ。

こうした問題定義を強く押し出した作品を書く作家と思われがちかもしれないが、氏の作品は一見そうは見えない中に、実は読み解くべき訴えや問題が隠れているといったものが多い。

その意味でJも氏の持ち味が発揮された作品であったと、改めて感じることができた。

2つの巨大ヒーローの融合:『仮面ライダーJ』の「巨大化」に迫る

 Jというライダーの最大の特徴が巨大化だ。

これは今現在でも映画そのものの評価を分ける設定として物議をかもす。

ここでは設定などはさて置いて、上原氏が手掛けたという観点からこの巨大化という要素について考えたい。

 

上原氏といえば円谷プロのウルトラシリーズに初期から関わった人物であることはよく知られている。

そして、初期ウルトラシリーズの立役者である脚本家・金城哲夫氏の友人でもあった。

金城氏が携わった最初の「ウルトラマン」と上原氏がメインライターとして携わった「帰ってきたウルトラマン」。

この二作品は作風が大きく違う。

 

怪獣の活躍をメインにした「ウルトラマン」にはウルトラマンに変身するハヤタ隊員に悲しみを感じさせる要素はない。

一方で「帰ってきたウルトラマン」でウルトラマンに変身する郷秀樹には仲間との衝突や恋人の死など多くの悲しみが背負わされた。

 

上原氏が手掛けた「金城哲夫ウルトラマン島唄」という本の中で、上原氏は帰ってきたウルトラマンについて「金城のウルトラマンのような伸びやかさがない」と書いている。

話をJに戻すが、主人公の瀬川耕司には少なくとも改造されたことや戦うことへの悲壮感はまったくない。その意味ではハヤタ隊員に近い存在とも考えられる。

 

上原氏が盟友である金城氏が描いたようなヒーローを、ウルトラマンと同じように日本を代表するヒーローである仮面ライダーで作り上げたというのは言い過ぎだろうか。

そしてJはウルトラマンのように巨大化する。

Jに巨大化の要素が設定されたのはJの公開前に製作された「ウルトラマンVS仮面ライダー」という両ヒーローを紹介するビデオの存在がある。

オリジナルドラマで1号ライダーが巨大化したところ、それが評判となりJに影響した。

 

ウルトラマンとライダーが共闘した後に巨大化するライダーの脚本を手掛けるのがウルトラシリーズに携わった上原氏……

個人的にではあるが、ここに何か運命的なものを感じずにはいられない。

ウルトラマンも仮面ライダーもそれぞれ毎年製作される現在からは想像できないが、J公開当時は両方ともテレビシリーズが放送されていなかった。そんな時代が確かにあった。

Jという作品はそんな時代の中だったからこそできたウルトラマンと仮面ライダーが融合した作品であったように思う。

Jは巨大化せねばならなかった。ライダーと同じくウルトラマンの火を消さないために。

 

このような作品は、両ヒーローが完全に別々の展開を見せている現在では二度と作れないかもしれない。

上原氏は携わっていないが、後に「ウルトラマンガイア」という地球の力で変身するウルトラマンが登場する。

地球の力で戦うヒーローという設定は何もJが初出ではないが、当時ガイアのキャラクターにどこかJに通じる物を感じたのを覚えている。

永遠の物語:上原昭三が残したメッセージと特撮ヒーローの未来

子どもの頃、親がウルトラセブンや帰ってきたウルトラマンの再放送をビデオに録画して私に見せてくれていた。

リアルタイムに放送される特撮番組には上原氏はほとんど携わっていなかったこともあり、私の上原脚本との接点は過去の作品を通してだった。

 

特にウルトラセブン誕生の経緯が描かれた「地底GOGOGO」というエピソードは子ども心に印象的だった。

「仲間のためにザイルを切った、何と勇敢な青年だ」

ウルトラセブンが勇気ある地球人・薩摩次郎に語った言葉だ。セブンのキャラクターは後々の作品に至るまですべてこの言葉が元になっているように思う。

 

その後「ウルトラマンティガ」でティガと初代ウルトラマンが共闘した「ウルトラの星」というエピソードを見て衝撃と感動をもらったことを今でも覚えている。

ヒーロー物を見て心が震える体験を私は上原氏からもらった。

 

残された功績は膨大だが、今回個人的に好きな作品である仮面ライダーJを選んだ。

この作品に上原氏が託したメッセージは30年を経過した今も私達に問いかけている。

大自然の使者としてのヒーロー性と悲しみ、そしてウルトラマンとの宿命的な融合はまさに永遠の物語だ。

 

氏の偉大な功績はこれからも特撮ファンの心に生き続けるだろう。

そして氏が残した作品は、未来の特撮作品への種となり永遠に命をつなぎ続ける。

上原さん、改めてたくさんの思い出と素敵な作品をありがとうございました!