※この記事は映画のネタバレを含みます
サイレント映画「SOUL OF LOVE」は福岡県出身で、現在も福岡で女優や映画監督として活動する花野純子さんの監督作です。
サイレント映画「SOUL OF LOVE」上映会、沢山のお客様にお越し頂きありがとうございました!
— サイレント映画 「Soul of Love」 ソウルオブラヴ 花野組♣︎福岡 (@hananogumistaff) February 28, 2021
映画が出来ていく過程から、生まれる瞬間まで立ち会うことができ、幸せです✨
また、「PHOTO ZINE」をご購入の方々、そしてTwitterにチケットの画像をあげて下さった方々、ありがとうございます!感激です😭 pic.twitter.com/S0mzTlaHuU
現代ではあまり聞き慣れないサイレント映画とは、俳優の台詞がなく音と演技のみで構成される映画です。
1900年代初期の映画は、そのほとんどがサイレント映画でした。
観たことはなくても、チャップリンの「黄金狂時代」という映画タイトルを知っている方もおられるでしょう。
「SOUL OF LOVE」は現代に敢えてサイレント映画という形をとることで、観客に映画と愛の形を考えさせる意欲作です。
今後様々な場所で上映が予定されている本作ですが、非常に観念的な映画でもありました。
そこでこの記事では映画を観た方に向けて、本作に込められたものと涙が転生したカラスが示すもは何か。
主人公・桐明(キリアキ)が手にしていた映画「白夜」のチケットの意味などを私なりに考察しました。
この記事が鑑賞後の考察において、一つの手助けになれば幸いです。
「SOUL OF LOVE」予告編
彷徨う二人
死後の世界と現世
映画は桐明が河原で目覚める場面から始まりました。
私は事前情報を知らずに観たため混乱したのですが、桐明がいるのは死後の世界です。
そしてカラスに転生した桐明の恋人・涙(ルイ)がいるのが現世とのこと。
この後映画は全編に渡って、それぞれの世界を彷徨う二人の姿が描かれます。
その合間に時折、二人が生きていた頃の様子が挟まれます。
二人は何かの事件に巻き込まれたようですが、それがどんなものかは明かされません。
恐らく桐明が持っている宝石に絡むものと思われますが、ここで大事なのは二人が既に故人だということ。
死んでいるにも関わらず彷徨う姿から、彼らが何か強い未練を抱いていることを伺えます。
果たして二人は何を求めていたのでしょうか。
魂が重なり合う場所
世界を彷徨う二人はとある洋館で遂に再会します。
幸せそうにダンスを踊る姿から、二人が求めていたのは「互いの存在」だったと考えられます。
その場面では涙の姿がカラスから人間に戻っていました。
桐明が様々な場所を歩いていたのは、死んだことで忘れていた涙のことを思い出そうとしていたのかもしれません。
異なる空間にいる二人が交流するには「魂」が通じ合うことが必要。
洋館が二人にとってどういう場所だったのか今一つ不明ですが、魂を重ねて再会するにはここでなくてはならなかったのでしょう。
「白夜」が意味するもの
映画「白夜」の内容
桐明は映画「白夜」のチケットを手にしていました。
この映画はドフトエフスキーの原作を、イタリア・フランス合作で1957年に映画化したものです。
主人公・マリオは偶然出会ったナタリアという女性に恋しますが、彼女にはずっと待っている男性がいました。
待っても待っても帰らない男性を思うナタリアと良い雰囲気になりかけるマリオですが、最後に待ち人が現れナタリアと別れます。
マリオにとってナタリアと過ごした時間は夢の時間でした。
白夜から読み取る事件の背景
観客にしっかりと見えるように白夜のチケットが映されていたことには、何か意味があると思います。
白夜の内容から、生前の桐明と涙の恋人関係は夢のようなものだったと考えました。
つまり二人は結ばれる立場ではなかった。
ここで鍵になるのは、桐明に宝石を渡す茶道講師の存在です。
実は彼女こそが桐明の婚約者だった。
しかし桐明は何らかの理由で、本来は結ばれない存在である涙を選んだのでしょう。
それがばれて茶道講師(あるいは依頼を受けた殺し屋)に殺されてしまった。
ただの茶道講師が大量の宝石を持っているのは怪しいことです。
一緒になれないとしても、桐明にとって涙との時間は夢のような時間だった。
涙こそが桐明の本当に大切な人だった。
白夜が強調されたのは、こういった二人の関係性を示す意味があったからではないでしょうか。
カラスは何を表していたのか
涙がカラスになった理由
作中で普通のカラスや、まるで仮面ライダーのカラス怪人を思わせる奇怪な姿を見せる涙ですがなぜカラスに転生したのでしょうか。
考えられるのは、彼女が自分の死を受け入れていないということです。
昔から日本には「カラスは不吉の象徴」という迷信がありました。
このようにカラスにはどこか死のイメージが漂います。
本当は死んでいるものの、現世への思いが強かったために死人であることを意味するカラスに転生した涙。
現世への思いとは、桐明が自分のことを本当に愛していたのかという疑問です。
洋館で桐明に再会して人間に戻れたのは、彼女の思いが叶えられたからでしょう。
ラストの展開が意味すること
映画のラストは、死んだと思ったカラスの涙を桐明が見送る展開です。
何度か涙の死を思わせながら、それでも生存を感じさせる流れは何を意味していたのか。
ここまでくると、この場面が現世のことなのか死後の世界のことなのかわかりません。
私が思ったのが、何度もの死と再生を経て涙は成仏したということ。
桐明が渡らなかった川の向こうへ飛んで行く姿にそう感じました。
本作に込められた意味
死後の世界と現世の世界、人間の姿の桐明とカラスの姿の涙。
こうした対比から、本作に込められたものを私なりに解釈すると「愛は魂でこそ感じられるもの」ということです。
現代社会はネットをはじめとしたメディアにより「言葉」に溢れています。
その一方で孤独が社会問題になるなど、人と人との距離はどんどん遠くなってきました。
もしかしたら言葉では伝わっていないことのほうが多いのではないか。
私たちが思っているほど、言葉に力などないのではないか。
そうであれば、愛する人に気持ちを伝えるには行動しかない。
傷つき、倒れ、絶望し、叫び、それでも気持ちが伝わるまで歩き続けること。
桐明や涙がそうであったように。
行動する人の姿は心=魂を動かします。愛を魂で感じるのです。
ここに本作が台詞という言葉を使わないサイレント映画だった意味を感じました。
本作の感想
映画の「画」を楽しむ
本作は難解な映画でした。
そのためここに書いた解釈は、全て正しいかもしれないし全て間違いの可能性もあります。
事前にサイトや予告編を観てから鑑賞するのがお勧めです。
その一方で、作中の描写と無関係に思える現代社会の問題を考えさせられる部分もあり考察好きの方には一度観て欲しい映画です。
そもそも映画とはスクリーンに映される「画」の面白さから始まりました。
サイレント映画の時代、音がない分観客は役者の演技や場面のシチュエーションで映画を楽しんでいたのです。
音のあることが当然の現代では、意外とこれは盲点だと思いました。
人それぞれ映画に求めるポイントは違いますが、広いスクリーンで観る映画は「画」を楽しむ。
そのことを、私は本作から感じました。
特撮オタクとして惹かれた部分
これはただの特撮オタクの個人的な興味ですが、涙が変身するカラス人間に惹かれました。
このカラスの頭部は誰が作ったんだろうとか、やはり着ぐるみ的なものに目がいきましたね。
人型のカラスというと、ギルガラスとかカイザーグロウとかクロウロードなどを思い出します。
他には「テツワン探偵ロボタック」のダークローとか。
自分が見てきたカラス系のキャラでは、涙のカラスが一番優しいキャラでした。
あと興味深かったのが、鳥状態のカラスは組み立てられた一種のラジコン的なものだったというお話。
本当にリアルだったので本物かと思いました。
こういう造形物も特撮オタクとしてそそられました。