名前だけは知っていても実際に観たことのない映画が多いです。
本などであらすじを知っていて、いつの間にか観た気になっている。
特撮映画は特にそうで、なまじ大量に書籍を読んでると観たのか観てないのかの境が曖昧になっていました。
『電送人間』もそんな作品の一つで、作品概要は東宝特撮関連の書籍で知っていたのですが今まで未見の作品でした。
1960年の映画なのでかなり古い作品です。
この度、アマゾンプライムビデオで本作が観れたのでその感想を綴ります。
詳しいストーリー等はwikiなどに譲るとして、鑑賞した後に最初に感じたのは本作も『ゴジラ』の系譜に位置する特撮作品だということ。
本作に怪獣は出てきませんが、誤った科学の使い方は怪物を生むという『電送人間』のテーマはゴジラと同じだったんです。
電送人間こと須藤はれっきとした人間ですが、合成を用いて描かれる体が透けているような姿は怪物という表現がピッタリでした。
その彼が自分を裏切り生き埋めにした者達に復讐をしていくんですが、それは電送装置を作った仁木博士が望む装置の使い方ではなかったんですね。
東宝怪獣の祖である初代ゴジラは、度重なる核実験の影響で住処を追われて人間の前に姿を現しました。
地球を何度でも破壊できるほどの力を持つ核兵器。
人間が科学を誤った方向に使ったから生まれたのがゴジラという怪物です。
須藤も同じで、復讐という負の目的のために電送装置という科学を使った結果怪物となってしまいました。
普通の人間といっても復讐する相手の元にのりこんで一人で相手の集団を抹殺したり、警察の発泡から何度も逃げ延びたりする姿は完全に人外の怪物です。
また須藤が笑う場面では口が開いておらず笑い声だけが鳴り響く演出になっているんですけど、これなんてスタッフが完全に須藤を人間ではなく怪物として描きたいんだという意図が伝わってきました。
ネタバレになりますがラストで復讐を果たした後、須藤も仁木博士が装置を停止させたことにより消滅してしまいます。
映画は唐突にそこで終わってしまいました。
『サンダ対ガイラ』などもそうなんですが、わりと昔の東宝特撮映画は余韻なく終わるパターンが見られます。
電送人間の事件に関わった人々の事件解決後の心情が描かれる場面はありません、
個人的にはやはりそういう場面の一つも欲しいところですが、逆にその突き放された感じが「いいな」と思う部分もあります。
いい意味で、復讐の虚しさを感じられました。
国を愛していた終戦直後の須藤でしたが、それ故に彼は仲間に裏切られていました。
須藤の気持ちは理解できるんですけど、復讐の鬼になった時点で皮肉にも彼は自分を裏切った者達と等しい存在になってしまいました。
大義や仁義でなく、ただ己の私欲のために生きる存在です。
そうやって暴走した須藤は自分と同じく被害者であるはずの仁木博士さえ、邪魔になったため殺害しようとしました。
かっての仲間達が自分にしたことを、今度は須藤自身がしています。
そうしてやってきた、生き残った者のいない勝者なき決着。
虚しさが突きつけられました。
本作の脚本を手掛けたのは『キングコング対ゴジラ』を手掛けた関沢新一氏。
関沢氏が携わったゴジラ作品は比較的明るいカラーの作品が多いです。
そのイメージで電送人間を観ると、かなり異色の印象を受けます。
ただ『キングコング対ゴジラ』も結局勝者はおらず人間の愚かさが伝わってくるので、私欲にまみれた人間の行き着く先は虚しさというのが関沢氏が作家として伝えたいテーマだったのかもしれません。
ビジュアル的な所では、透明人間ともまた違う体に電気が流れている『電送人間』の雰囲気は面白かったですね。
体がぼやけている分、おどろおどろしさを感じました。
また全身金粉まみれの女性ダンサーや、セーラー服をイメージした露出度の高い衣装を着たキャバレー店員など、あまり他の作品では見られないようなものが見れました。
どこか現代のコンセプトカフェに通じるものが古い特撮映画で発見できたのは良かったです。
一方「う〜ん」と思う部分もありました。
須藤に復讐以外の感情を感じられないので、ちょっとキャラクターとして魅力を感じられなかったかなと。
結局話しに決着をつけたのは仁木博士なんですが、この人もあまり深く掘り下げれているわけじゃないのでキャラが弱かったですね。
だけど特撮には異色の鶴田浩二さんの存在感は作品に厚みを与えていたと思います。
怪獣や怪人だけではない色々な作品が作られていた時期の特撮映画として、未見の方はこの機会にいかがでしょうか?