時々突発的に怪獣映画を観たくなり、今回「空の大怪獣ラドン」を久しぶりに見ました。
昨年のキングオブモンスターズで久しぶりにその姿を見せてくれたラドン。
世代的に「ゴジラVSメカゴジラ」のファイヤーラドンが印象的です。
改めて見直すと色々と感じることがありました。
映画の独自性と丁寧さ
舞台となるのは九州。
色々な怪獣映画があるけど、出てくる舞台がほぼ九州だけに限定される怪獣映画は珍しい。
でもその描写から、怪獣はどこにでも眠っていることが感覚として伝わってきました。
ラドンの被害自体は世界各地で発生していて、北京やフィリピンなど報告という形だけでもそれが伝わってくる。その時に既にラドンが二体いる伏線が張られているんですが、丁寧な描写で好感が持てました。
丁寧といえばメガヌロンに亭主を殺された妻が泣き狂ったり、主人公の恋人に詰め寄る場面が印象的です。
怪獣の被害者があれば悲しみが生まれる。
凄く当たり前のことなんですけど、こうした描写があるかないかで映画の切迫感が全然ちがいますね。
明るい怪獣映画を否定するとかじゃなくて、映画の方向性でシリアスな作風を目指すならガメラ3もそうだけど「被害者の描写」って大切だと思いました。
同時に、そのことはこのラドンの時代からきちんと考えられていたんだと実感。
総じてとても丁寧に作られた映画だと思いました。
個人的にラドンのイメージは風
見出しの通りなんですが、ファイヤーラドンや火山地帯から出現したことでこれまでラドンのイメージは炎でした。
だけど、空の大怪獣ラドンを改めて見ると福岡の街を破壊する場面や代名詞のソニックブームからラドンは台風の化身・風の化身のようなイメージを受けました。
九州は日本の中でも比較的台風が上陸する回数が多いです。
今の時代から計算すればそうなので製作当時はどうだったかはわからないけど、何となくそんな風の怪獣が九州から出現し暴れまわったというのは不思議な感じがしました。
街の発展と田舎の衰退
今回映画を見て、ずっとこの作品は何を伝えたかったのかを考えていました。
色々な所を荒しまわったラドンですが、特に特撮を用いて描かれた福岡襲撃の場面。
そこに描かれる発展しようとする当時の福岡市。
それとは対照的な、自然豊かな阿蘇の風景と炭鉱の町。
空の大怪獣ラドンが公開されたのは1956年。
公開から6年後の1962年には原油の輸入化が自由化されることになり、エネルギーの中心が石炭から原油へと変わります。
映画の中でも「黒いダイヤ」と言われた石炭の時代が徐々に終焉を迎えていくのです。
同時に人々の暮らしがそれぞれの町から大都市へと中心を移していく。
描かれる福岡の発展の裏には阿蘇の炭鉱のような産業があった。
地方があって都市の発展があったのですが、その流れが徐々に変わっていく。
炭鉱は危険な場所で事故も多かったと聞いています。発展はその人たちの犠牲の上に成り立っていた。
そう考えた時にこの映画は、やがて来る都市中心と地方過疎化の時代を予期していた映画だったんじゃないかと思いました。
阿蘇から出現したラドンが発展し続ける福岡を壊す。
ラドンを倒すために阿蘇一体の町を犠牲にして火山を噴火させる。避難する人々。失われる故郷
うがった見方かもしれませんが「都市が発展するのが大事。そのためにラドンは邪魔。だから田舎が犠牲になってね」といった感じを受けました。
ラドンが舞い降りた一帯に現代ある建物。
この一帯も再開発計画があり、三枚目の写真の天神コアも閉店しました。
街は生まれ変わっていく。何度もの破壊と再生を経て。
それ自体は責めることではないと思いますが、発展の裏にどこかであるであろう犠牲。
夜中にぼおっと「空の大怪獣ラドン」を観ていると、ラドンに壊されるまでもなく姿を変えていく街の姿に思いを寄せました。