ネコはミカンを片手に夜明けを待つ

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「仮面ライダーJ」ウルトラとライダー 追悼・上原昭三氏を偲んで

先日、脚本家の上原昭三氏が亡くなった。

氏についてはウルトラシリーズは無論のこと、メタルヒーローシリーズも戦隊シリーズも手掛けた作品については既に様々な場所で語り尽くされている。

よって、この記事では氏の作品の中であまりスポットの当たらない作品に焦点を当てて上原氏が残した作品の魅力を考えたい。

「仮面ライダーJ」作品解説

「仮面ライダーJ」は1994年に公開された劇場用作品だ。

監督は牙狼シリーズで知られる雨宮慶太氏。

同年に放送されていた「忍者戦隊カクレンジャー」と「ブルースワット」の劇場版と合わせ東映スーパーヒーローフェアという特撮ヒーローで構成された映画プログラムのメイン作品として上映された。

今作は1993年に劇場公開された「仮面ライダーZO」と1992年にオリジナルビデオとして展開された「真・仮面ライダー序章」とともに『ネオライダー』と呼ばれる作品の一つである。

当時は仮面ライダーBLACK RX以降ライダーシリーズの放送が中断していた空白期。

俗に『昭和ライダー』と呼ばれる作品群から仮面ライダークウガ以降の『平成ライダー』と呼ばれる作品への過渡期にあたる時代である。

なお製作された時代は平成だが、区分上ネオライダーは昭和ライダーに分類されている。

あらすじ


過去に恐竜を全滅させた宇宙怪物集団「フォッグ」が再び地球に来襲。
その目的は首領であるフォッグ・マザーの体内にある無数の怪物の卵を孵化させ、地球の全生物を滅ぼすことにあった。
そのために必要な生贄の儀式のため、自然を愛する少女「木村加那(きむらかな)」が狙われる。
取材の過程で加那と知り合った環境カメラマン「瀬川耕司(せがわこうじ)」は、突如現れたフォッグの攻撃を受け加那をさらわれ自らも命を奪われてしまう。
絶命した耕司は「地空人(ちくうじん)」と呼ばれる地中に住む人々の手で仮面ライダーJとして蘇生され、加那を取り戻すために地球の力・Jパワーでフォッグに戦いを挑む。

仮面ライダーZOの存在

今作は上映時間46分の短い時間の中でスピーディーに物語が進んでいく。

今作を考える際に避けて通れないのが前年に公開された仮面ライダーZOの存在である。

元々、ZOの続編企画が様々な理由で別の仮面ライダーが活躍するJになったという経緯もあり、両者のデザインが似ていることはよく知られている。

またZOのストーリーも悪役に狙われる少年をZOが守るという構成であり、少女を助けるために戦うというJの構成と基本的には共通している。

一方でJのストーリーで特徴的なのは、悪役の来襲→瀬川耕司の蘇生によるJの誕生→フォッグとの戦い→エンディング、という流れを上映時間の中で全て取り入れていることにある。

これは、映画のスタートの時点で主人公が既に改造人間だったZOとは対照的だ。

ZOはライダー誕生の過程に割く時間を削る代わりに、人間ドラマの部分に時間がおかれている。

一方Jの場合は登場する人物の少なさもあってドラマ部分はZOに比べ抑えられたものになっている。

その分ストーリーはアクションシーンの連続であり、敵怪人との戦闘シーンはそれぞれ異なるシチュエーションの中で行われる見応えあるものになっている。

「大自然の使者」という要素

Jまでの仮面ライダーは一部の例外を除き「改造人間」である。

普通の人間としての肉体と人生を失い、その悲しみと苦しみを人類を守る意思に変え悪の組織に戦いを挑んでいく。

上原氏が初期のメインライターとして携わった「仮面ライダーBLACK」においてもそうした主人公の悲しみや苦悩は描かれていた。

しかし、Jという作品では瀬川耕司の改造された苦悩はまったく描かれていない

時間的にそれを描くことが不可能だったのだろうが、その結果加那を取り戻し地球を守るために戦うストレートなヒーロー像が描かれていた。

一方で、Jには仮面ライダーの持つ「大自然の使者」という要素が強く強調されている。

最初の仮面ライダーである1号ライダーがバッタの改造人間であることはよく知られている。

原作者の石ノ森章太郎が科学技術を使い地球を支配しようとする悪に対して、その悪から生み出されながらも人間の心を無くさなかった存在として1号を創造した。

バッタがモデルとなったのは元々「スカルマン」という骸骨をモデルにしたヒーローを構想していたが、それが没になったため骸骨に似たバッタをモデルにしたと言われている。

一方で、バッタには科学を用いる悪の組織にライダーが大自然の力で戦う存在という要素を加える狙いもあった。

だが、この「大自然の使者」という要素はほとんどの作品でさほど重視されてこなかった

その点でJはこの要素を前面に押し出し、描き切った唯一のライダーであると考えられる。

Jは地球が持つ力「Jパワー」で戦うヒーローだ。

地球から生まれたヒーローが地球外からやって来た巨大な悪を倒す。

私がこの映画を観たのは小学生の時にビデオレンタルでだったが、私が感じたのは「ライダーがいる限り地球は大丈夫」という感想だった。

破壊される自然への悲しみ

しかし、Jにまったく悲壮感がないかというとそうでもない。

作中、蘇生した耕司が開発で破壊された山を見て心を痛めるシーンがある。作品全体で見るとここだけ、やや浮いた印象を受けるシーンだ。

その後すぐに敵の襲来がありバトルになるためそれ以上そのシーンが深く掘り下げられることはない。

上原氏は何の意味も無くこのシーンを入れたのだろうか? 私にはそう思えない。

Jは地球のパワーを持つ存在である。地球の使者と言っても差し支えない。しかし、地球は人間の環境破壊で傷ついている。

つまりこのまま地球環境が破壊され続ければ極端な話、Jが人類の敵になる可能性もありえる

勿論、人間である瀬川耕司が人類に敵対することなどありえないだろうが、Jというヒーローはその存在に矛盾を抱えたているように思える。

また、時間の都合上仕方ないが巨大な要塞であるフォッグ・マザーが暴れまわる中で、軍隊の出動などもなく戦っているのがJだけという状況。

ここは、人類が滅びるかどうかの瀬戸際にしてはあまりに「人類」の存在が薄いように思える。

だが、視点を変えるとこうしたシチュエーションは「地球に生きているのは人類だけではない」と訴える上原氏からのメッセージに感じられる。

耕司を改造した地空人は人間とは異なる生命体だ。地球を守るためならばそうした人類以外の者も戦わなければならない。

今回はフォッグを撃退できたがこのまま環境破壊が続けばいつかまたフォッグのような敵が来たとしてその時Jが戦えるかわからない。

こうした背景を考えると、Jという作品はストレートな作風の裏に人類への警告を隠していたように思える。
まるで仮面で本性を隠すように。

瀬川耕司自身には改造された悲しみは無いが、人間が地球のパワーを使うということ自体が実は悲しみを含んでいたものではないのか。

Jにもライダーの持つ「悲しみ」の要素が少なからずあったのではないかと気づかされる。

上原氏といえば帰ってきたウルトラマンの「怪獣使いと少年」が有名だ。

こうした問題定義を強く押し出した作品を書く作家と思われがちかもしれないが、氏の作品は一見そうは見えない中に実は読み解くべき訴えや問題が隠れているといったものが多い。

その意味でJも氏の持ち味が発揮された作品ではなかったのかと改めて考える。

ウルトラマンと仮面ライダーの融合

Jというライダーの最大の特徴が巨大化だ。

これは今現在でも映画そのものの評価を分ける設定として物議をかもす。

ここでは設定などはさて置いて、上原氏が手掛けたという側面からこの巨大化という要素について考えたい。

上原氏といえば円谷プロのウルトラシリーズに初期から関わった人物であることはよく知られている。

そして、初期ウルトラシリーズの立役者である脚本家・金城哲夫氏の友人でもあった。

金城氏が携わった最初の「ウルトラマン」と上原氏がメインライターとして携わった「帰ってきたウルトラマン」。

この二作品は作風が大きく違う。

怪獣の活躍をメインにした「ウルトラマン」にはウルトラマンに変身するハヤタ隊員に悲しみを感じさせる要素はない。

一方で「帰ってきたウルトラマン」でウルトラマンに変身する郷秀樹には仲間との衝突や恋人の死など多くの悲しみが背負わされた。

上原氏が手掛けた「金城哲夫ウルトラマン島唄」という本の中で、上原氏は帰ってきたウルトラマンについて「金城のウルトラマンのような伸びやかさがない」と書いている。

話をJに戻すが、主人公の瀬川耕司には少なくとも改造されたことや戦うことへの悲壮感はまったくない。その意味ではハヤタ隊員に近い存在とも考えられる。

上原氏が盟友である金城氏が描いたようなヒーローをウルトラマンと同じように日本を代表するヒーローである仮面ライダーで作り上げたというのは言い過ぎだろうか。

そしてJはウルトラマンのように巨大化する。

Jに巨大化の要素が設定されたのはJの公開前に製作された「ウルトラマンVS仮面ライダー」という両ヒーローを紹介するビデオの存在がある。

オリジナルドラマで1号ライダーが巨大化したところ、それが評判となりJに影響した。

ウルトラマンとライダーが共闘した後に巨大化するライダーの脚本を手掛けるのがウルトラシリーズに携わった上原氏……

個人的にではあるが、ここに何か運命的なものを感じずにはいられない。

ウルトラマンも仮面ライダーもそれぞれ毎年製作される現在からは想像できないが、J公開当時は両方ともテレビシリーズが放送されていなかった。そんな時代が確かにあった。

Jという作品はそんな時代の中だったからこそできたウルトラマンと仮面ライダーが融合した作品であったように思う。

Jは巨大化せねばならなかった。ライダーと同じくウルトラマンの火を消さないために。

このような作品は、両ヒーローが完全に別々の展開を見せている現在では二度と作れないかもしれない。

上原氏は携わっていないが、後に「ウルトラマンガイア」という地球の力で変身するウルトラマンが登場する。

地球の力で戦うヒーローという設定は何もJが初出ではないが、当時ガイアのキャラクターにどこかJに通じる物を感じたのを覚えている。

永遠の物語

子どもの頃、親がウルトラセブンや帰ってきたウルトラマンの再放送をビデオに録画して私に見せてくれていた。

リアルタイムに放送される特撮番組には上原氏はほとんど携わっていなかったこともあり、私の上原脚本との接点は過去の作品を通してだった。

特にウルトラセブン誕生の経緯が描かれた「地底GOGOGO」というエピソードは子ども心に印象的だった。

仲間のためにザイルを切った、何と勇敢な青年だ

ウルトラセブンが勇気ある地球人・薩摩次郎に語った言葉だ。セブンのキャラクターは後々の作品に至るまですべてこの言葉が元になっているように思う。

その後「ウルトラマンティガ」でティガと初代ウルトラマンが共闘した「ウルトラの星」というエピソードを見て衝撃と感動をもらったことを今でも覚えている。

ヒーロー物を見て心が震える体験を私は上原氏からもらった。

残された功績はあまりに大きいが、今回個人的に好きな作品である仮面ライダーJを選んだ。

書いていく中で、シンプルな物語に隠されているかもしれない多くのものを発見した。

それはJ以外の作品の中にも必ずあるだろう。

上原さん、たくさんの思い出と素敵な作品をありがとうございました!


仮面ライダーJ