「『死にたい』と思ったことはあるか?」
そう聞かれれば私は迷わず「はい」と答えます。
では「『生きたい』と思ったことはあるか?」
と聞かれたら答えに迷ってしまいます。
自分が今ここに生きていることは凄く当たり前のことで、それはきっと明日も同じ。
本当はそんな保証はどこにもないと頭ではわかっているのに、根拠なく自分は明日も生きていることを信じている。
そしてやって来た明日は「死にたい」と感じてしまうようなヘビーな毎日‥‥‥
Amazonのkindleで配信中の今回紹介する小説「罪なき私」は「生きたい」という思いの大切さを思い出させてくれる小説です。
当たり前だからこそ忘れてしまう大切なことを優しく伝えてくれる素敵なファンタジーです。
著者紹介
鈴木萌里(すずきもえり)
大学時代に「天狼院書店京都天狼院」に勤務。
卒業後、就職のため天狼院を離れるが2020年4月よりスタッフとして勤務復帰。
主な作品に「京都天狼院物語(WEB READING LIFE掲載)」「まなざし(本人note)」など。
あらすじ
就職浪人中の主人公・藤沢美詩(ふじさわみこと)。
長く続けているにも関わらず一向に成功しない就活に美詩は疲れ切っていた。
そんな彼女に突き付けられたのは自分を励まし続けてくれた唯一の家族である母の死。
全てに絶望し自ら命を絶とうとする美詩。
その時、突然彼女の前に自分を「魔女」と名乗る不思議な少女が現れ美詩を現実の世界に似た異世界へと連れていく。
美詩の自殺を止めに来たという魔女。
美詩が元の世界に戻り死ぬためには魔女が与える命令をクリアしなければならない。
困惑する美詩だったが、仕方なく魔女の要求を受け入れる。
魔女が与えた命令は「自分が指名した人間を美詩が殺すこと」だった‥‥‥
登場人物紹介
藤沢美詩(ふじさわみこと)
主人公。就職活動が上手くいかず、母の死によって絶望に追い込まれた女子大生。
父が家族を捨てたことで心に傷を持っている。
魔女(まじょ)
美詩を異世界に連れてきた不思議な存在。見た目は少女の姿をしている、
普段はおちゃらけているが命令を下す際は厳格になる。
篠崎言(しのざきげん)
美詩が異世界で出会ったアパレル店員の青年。明るい性格で美詩と親しくなる。
ホームレスの老人
異世界で美詩が出会った老人。昔、幼い美詩に似た少女が近所に住んでおりその子を美詩に重ねる。
美詩の父
美詩の母と美詩の三人で仲良く暮らしていたが、ある時から不倫をしたため家族の元から離れその後亡くなった。
美詩の母
美詩の父と離婚後、一人で美詩を育て就活に悩む娘を支えるがある日突然この世を去る。
美詩の苦しみに共感できすぎて辛い
この物語の主人公・美詩は就活に苦戦しています。
浪人して大学五年生になってもどこからも内定をもらえていません。
企業の担当者から言われる数々の美詩を傷つける言葉。
既に彼女の心は疲れ切っていました。
個人的なことになりますが、私は美詩の気持ちが痛い程わかります。
私自身が就活で上手くいかなかった人間だからです。
美詩ほどではありませんが、数えきれないくらいの会社を受けてことごとく落ち続けました。
周囲の人間は二つも三つも内定をもらう中で自分だけがもらえない苦しみ。
劣等感から次第に卑屈になり、それを通り過ぎると絶望し死にたくなるほど追いつめられていく心。
決して自分が凄い人間だと驕るわけではない。働きたい気持ちに嘘は無いはずなのに受け入れてもらえないことは本当に苦しいです。
就活ではなくても、仕事でも人間関係でも「自分は世界から否定されている」と感じている人はきっと美詩に共感出来ます。
もう一つ。
孤独な美詩を支える唯一の存在が母ですが、誰にも悩みを打ち明けられず限られた肉親にしか愚痴も吐けないといった人もきっと共感出来ます。
幸い今はまだ肉親が健在でも、いつか自分一人になったらと考えると恐怖しかありません。
美詩には孤独になる時が突然やって来ます。
異世界来に来たら「殺人」をすることになるなんて
母の死に絶望し自殺しようとした瞬間異世界に連れてこられた美詩。
魔女と名乗る不思議な少女に命令され元の世界に帰るために殺人をすることになります。
突然魔女が出てきて驚きました。
ここで、この作品がファンタジーだということがわかります。
「ああ、何か試練をクリアして元の世界に戻って人生やり直すのね」とこの時点で思ってしまいました。
ところがこの予想は良い意味で裏切られました。
元の世界に戻るために魔女が命令したことは「自分が指名した人間を殺せ」。
殺人です。
はい、ここテストに出る大事なところだからもう一度いいますよ。
殺人です。
‥‥‥
‥‥‥
どういうファンタジー!?
いや、大抵の作品ってあれじゃないですか。
死にたいくらい悩んでる人間が人助けして救われるっていう。
この作品はその逆をいってるんです。ここで一気に引き込まれました。
だって魔女って作中の表現だと可愛い幼い少女の姿なんですよ。
それにいきなり殺人やれって予想の斜め上すぎます。
この大胆な発想がこの作品の魅力です。
美詩と魔女のノリの軽い掛け合い
とはいっても、この世界は異世界なので殺人をしても美詩の罪にはなりません。
そしてこの世界では美詩は死ぬことができないので魔女の命令に従うしかありません。
が、この魔女は物凄く気まぐれなんです。
普段は姿を見せないのですが、その状態でも常に美詩の様子を見ています。
そして突然「この人を殺せ」と言ってくる。
迷惑な魔女ですが、この魔女のキャラが作風を暗くし過ぎていない部分が個人的には良かったです。
自分が美詩の悩みに共感できすぎるからかもしれませんが、美詩を引っ掻き回す魔女の姿は微笑ましくて物語を読みやすくしていました。
ただ、あくまで作風が暗くなっていないだけで話自体は重い。
魔女が最初に指定したターゲットは美詩と何の関わりもない幼い少女でした。
結局、美詩は少女を殺せません。
魔女のルールとして、あと一人まで命令を無視することが許されるんですが改めて美詩は殺人に向き合わなければならなくなります。
魔女って色々な創作物に使われますが、イメージの一つに「恐ろしい存在」というのがあります。
元々ヨーロッパでは不思議な力で人々に災いをもたらす存在として魔女が信じられていたので、殺人に厳格でそれを美詩に強いる魔女は恐いなあと感じます。
この時はまだ。
ラストで魔女の意外な正体が明らかになると彼女の行動の全てに納得がいきます。
美詩が抱える二つの問題
少女を殺せなかった美詩はその後異世界で様々な人に出会います。
アパレル店員の篠崎言、ホームレスの老人、美詩の父。
彼らが現実の存在ではないと知りながらも接近していく美詩。
舞台である異世界は現実では有りえないことが時に起こるので、死んだはずの父親も出てきます。
「罪なき私」は美詩の二つの問題を柱としています。
- 就活が上手くいかない人生への絶望。
- 幼い日に分裂していまった家族への思い。
幼い頃に家族で過ごした楽しい思い出は美詩の宝物です。
それなのに家族を捨てて出ていった父。
この異世界で美詩は父と向かい合うことで、知られざる真実に辿り着きます。
この「家族」というのが実は物語の大きなポイントで、最後まで読むとこの作品が「何の物語」なのかわかるようになっています。
「罪」とは何なのか
作品のタイトルにもある「罪」とは何なのでしょうか。
異世界とはいえ美詩は殺人を犯します。
それでも現実では何も影響がないので、その意味では罪はない。
ですがそれだけではありません。
物語の冒頭、就活の失敗で世界に見放されたようになっていた美詩は自分を責めていました。
また、かって自分の言葉のせいで父と母を不幸にしてしまったという思いも抱えていました。
誰からも必要とされない人間としての罪。両親を不幸にした子としての罪。
その罪が実は罪などではなかったということを美詩は異世界での殺人を通して知ることになります。
「罪なき私」は最終的に美詩が自分の罪の呪縛から解き放たれるラストに向かいます。
人は誰しも自分を責める瞬間があります。
あるいは責めずにはいられない思い出があったり。
だけど、本当にそれは罪なのだろうかとこの小説を読むと考えさせられます。
開き直るわけじゃないんですが、自分自身を振り返ると色々な嫌なことに遭遇するたびに「自分が悪い」と思うことで、それから先を考えることを止めていたのではないかとも思うのです。
自分が悪いって思うのは、ある意味じゃ凄く楽なことなんです。
だってそれさえ思えばもうそれ以上何も考えなくていいから。
でも、結局それは一時しのぎにしかならなくて後になるとまた自己嫌悪に陥って自分の無力さに罪の意識が増えていく。
「罪なき私」は殺人という命に直結する行いを通して、自分を許し前に進むことを訴えているように私は感じました。
まとめ
とても優しい小説ですね。
色々な所に人が人を思いやる優しさが溢れています。
ファンタジー、殺人、家族、恋愛、多重プロットをよくまとめてある小説でラストは希望を感じさせるため爽快感がありました。
美詩のように現実で傷ついた経験を持つ方には、寄り添い励ましてくれる一冊になると思います。
最後に美詩は無事にある場所で働くことになります。
その場所のモデルはもしかしたら「あの店」なのかなと想像すると思わずにやりとしました。
その個所は、どこか現実と小説が一つに繋がったような気がして読んでいて楽しかったですね。