ネコはミカンを片手に夜明けを待つ

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劇団ショーマンシップ『ノートルダム物語』感想 原作との違いから考えた“子どもに届ける演劇”

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はじめに

福岡で演劇鑑賞を続ける中で、劇団ショーマンシップ の存在を知った。

俳優たちの活動をSNSで追いかけるうちに、ショーマンシップが毎年学校巡演で上演している『ノートルダム物語』という作品の存在も知ることになる。

観たい気持ちはあった。
しかし学校巡演という性質上、一般客が観る機会はほとんどなかった。

俳優たちが巡演へ向かう様子を見るたび、「もう年末が近いのか」と感じる。
自分にとって『ノートルダム物語』は、まだ観たことがないのに、不思議と季節を感じる作品になっていた。

そして2026年5月。
西鉄ホール で一般公演が行われると知り、ついにこの作品を観る機会が訪れた。

 

 

作品基本情報

  • タイトル:ノートルダム物語
  • 上演期間:2026年5月9日〜5月20日
  • 会場:西鉄ホール
  • 脚本・演出:市岡洋
  • キャスト:仁木祥太郎、ソフィア、東沙耶香、武東亜斗夢ほか

会場の雰囲気

会場は 西鉄ホール

7月から楽しみにしている『真・アギト展』も開催される場所である。

『ノートルダム物語』と 仮面ライダーアギト
改めて並べると、自分の興味の幅もなかなか広い。思わず苦笑いしてしまった。

ロビーへ入ると、すでに大勢の観客で賑わっていた。
まるで小さな祭りのような熱気である。

私はこうした劇場の空気が嫌いではない。
せっかく芝居を観に来るのだから、どこか浮き足立った雰囲気の方が似合っている気がする。

事前に告知されていた通り、公演はチケット完売。
客席は満席で、スタッフや出演者たちが観客を丁寧に案内していた。

観客席には子どもの姿も多い。
しかし堅苦しさや息苦しさはなく、会場全体がどこか和やかな空気に包まれていた。

 

 

劇団ショーマンシップ『ノートルダム物語』を観劇

劇団ショーマンシップ の『ノートルダム物語』は、16世紀頃のパリを舞台にした作品である。

子どもにとってはもちろん、大人でもあまり馴染みのない時代設定だ。
しかし本作は、俳優たちの芝居にコミカルな演出を織り交ぜることで、難しさを感じさせない分かりやすい物語として成立していた。

歌唱シーンで流れる楽曲も印象的だった。

どこか異国の香りを感じさせる旋律が、作品世界の構築に大きく貢献している。
単なる挿入歌ではなく、「15世紀のパリ」という空気を観客に感じさせる役割を果たしていた。

中でも、エスメラルダ役・ソフィアの歌は特に素晴らしい。

 

 

彼女が歌い始めると、そこは演劇の舞台というより、まるでコンサートホールのような空気になる。

アクション、大道芸、コミカルな芝居。
それだけでも十分に豪華なのだが、そこへソフィアの癒やされる歌声まで加わる。

学校巡演作品という枠から想像していた以上に、エンターテインメント性の高い舞台だった。

舞台装置も印象的だった。

本作では、大きな階段状のセットを組み替えることで、様々な場所を表現している。

しかも俳優たちは、その階段を転がり、高い場所から飛び降りる。
学校巡演作品という言葉から想像していた以上に、かなり身体を使った舞台である。

観ているこちらは少しヒヤヒヤする。
だが同時に、「子ども向けだからこの程度でいいだろう」という甘えを感じさせない。
むしろ、本気で子どもたちに向き合おうとする覚悟のようなものを感じた。

特に印象に残ったのは、ロマ劇団の場面である。

劇中、観客席の子どもたち数人が舞台へ呼ばれ、大道芸に挑戦する時間があった。

物語の本筋とは直接関係ない場面だ。
しかし、それまで「観る側」だった子どもたちが舞台へ上がり、俳優たちと同じ空間で笑っている。

あの時間には、作品と観客の間にある壁を壊す力があった。

そして何より、舞台へ上がった子どもたち全員が本当に楽しそうだった。

考えてみれば、普通の演劇鑑賞ではまず見られない光景である。

その場面を観ながら、「もし自分が子どもの頃に学校でこれを観ていたら」と想像した。

恐らく、自分は手を挙げなかっただろう。
そういう子どもだった。

だが、それでも舞台へ上がった学友たちを見て、楽しい気持ちになった気がする。

そんなことを考えた。

仁木祥太郎演じるカジモドも印象的だった。

カジモドという役柄なら、屈強で威圧感のある俳優が演じ、そこから内面の繊細さを見せる方法もあったはずだ。

しかし本作のカジモドは違う。

仁木祥太郎の柔らかな声や空気感によって、子どもたちにも親しみやすい人物として描かれていた。

それは単なる優しさではなく、子どもたちが物語へ入り込むために必要な演出だったように思う。

作品の骨子には、差別や迫害というテーマが確かに存在していた。

しかし本作は、それを説教臭く語るのではなく、歌やアクション、大道芸といったエンターテインメントとして成立させていた。

もちろん、子ども向け作品として分かりやすく整理された部分はあるだろう。

それでも、そこに「子どもだらこの程度でいい」という甘えや見下しは感じなかった。

月並みな言葉にはなるが、本気で子どもたちへ届けようとしている舞台だったと思う。

 

 

原作『ノートルダム・ド・パリ』との違い

『ノートルダム物語』の原作は、ヴィクトル・ユゴー による
『ノートルダム・ド・パリ 』である。

私は原作未読だ。
だが観劇後、少しだけ原作の情報を調べてみた。

そこでまず驚いた。

ユーゴーの描いた『ノートルダム・ド・パリ』は、想像以上に救いの少ない陰鬱な物語だったのである。

もっとも、同じ作者が 『レ・ミゼラブル』 を書いていると考えれば、妙に納得もした。

『レ・ミゼラブル』には、たった一本のパンを盗んだだけで、19年もの投獄生活を送ることになったジャン・バルジャンという男が登場する。

しかもその盗みは、自分のためではない。
飢えた姉の子どもたちのためだった。

もちろん、盗みは正しい行為ではない。
法は法として必要なのだろう。

だがその一方で、“正しいはずの法”からこぼれ落ち、救われない人間もいる。

『レ・ミゼラブル』には、そんな悲しさがあった。

そして、そんな人物が書いた『ノートルダム・ド・パリ』である。

原作のあらすじを読むと、自分が 西鉄ホール で観た『ノートルダム物語』が、かなり大胆に再構成された作品だったことが分かった。

ノートルダム物語の核とは何だったのか

「なぜこんな陰鬱な原作を、学校巡演の題材にしたのだろう?」

観劇後、そんなことを考えた。

だが改めて原作の情報を読むと、ノートルダム・ド・パリ で描かれている核は、確かに『ノートルダム物語』にも残されていたように思う。

例えば、

  • 本当の怪物は誰なのか
  • 外見と内面は一致するのか
  • 権力は本当に弱者の味方なのか
  • 人は「自分と違うもの」を排除しようとする

といったテーマである。

原作未読の身で大きなことは言えない。
だが、こうした問題意識には強い普遍性があると感じた。

時代や価値観、科学技術がどれほど変化しても、人間が抱え続ける“業”のようなもの。
そう言い換えてもいいのかもしれない。

そして子どもたちにも、子どもたちなりの世界がある。

大人に守られているのは事実だ。
だがその中で、友人関係や孤独、疎外感や理不尽さに向き合っているのもまた事実だろう。

だからこそ、こうした普遍的なテーマを持つ原作を、歌やアクションを交えながらポジティブに再構成する。

それによって、子どもたちの心に何かを残そうとしていた。

私には、この『ノートルダム物語』がそんな作品に思えた。

     

    芸術は正義や愛を教えるか

    私は子どもの頃から、特撮ヒーロー作品が好きだった。

    そして長く作品を見続けていると、どうしても避けて通れない意見に出会うことがある。

    「ヒーローを愛するなら、彼らが伝えた正義や愛に相応しい人間であるべきだ」

    特撮関連で何か騒動が起きた時、SNSなどでこうした言葉を見ることも少なくない。

    もちろん、私自身もヒーロー作品から勇気や優しさを教わったと思っている。

    だが正直に言えば、だからといって立派で高尚な人間になれるほど、人間は単純ではない。

    もしヒーロー作品や優れた芸術作品を観た人間が、皆それに相応しい善人になるのなら、この世界はとっくに楽園になっているはずだ。

    素晴らしい作品に触れても、人は怒り、嫉妬し、誰かを傷つける。
    それが人間なのだと思う。

    だが一方で、人間にとって本当に大切なものは、教科書のように「教え込む」ものでもない気がしている。

    子どもの頃、私がヒーロー作品から受け取ったように、まず「感じること」が大切なのではないだろうか。

    カジモドが何に苦しんでいたのか。
    ロマの人々がなぜ自由を求めたのか。
    兵士たちはなぜ治安を守ろうとしたのか。

    難しい理屈は分からなくてもいい。

    ただ、何かを感じる。
    そして大人になった時、「なぜか心に残っている」と思い返す。

    『ノートルダム物語』は、そんな種のような作品なのかもしれない。