甘く香ばしいバターの匂いをさせた田中さんが休憩室に入ってきた。手には大盛りの明太子スパゲッティを持っている。桃色のスパゲッティ。ため息が出ちゃうくらい艶やかで美味しそうだった。
引用:松井玲奈/『カモフラージュ』 集英社
SKE48・乃木坂46の元メンバーである松井玲奈の短編小説集『カモフラージュ』に収録されている『いとうちゃん』はメイドカフェを舞台にした物語だ。
主人公のいとうちゃんはメイドカフェで働くことを夢見て上京するが、理想通りにならない現実に苦悩する。幸せな時間は食べる時間だけ。そのことがさらに彼女を苦しめる。
『カモフラージュ』は本当の自分に出会う物語だ。それぞれの章の主人公たちは、様々なきっかけでカモフラージュしていた自分の心に向き合うことになる。
『いとうちゃん』が私の印象に残ったのは馴染みの深いメイドカフェが舞台だったこともあるが、同時に作中に登場したある物に強く惹かれた。
明太子スパゲッティ。
いとうちゃんが働く店の『料理の妖精さん』である田中さん。彼が作った明太子スパゲッティの描写は本当に美味しそうだ。
いや、絶対に美味しいに違いない。なぜなら私はそれを食べたことがある。桃色のスパゲッティ。
福岡のメイドカフェ『めるドナ』。
素敵なメイド長が多くの人にその魅力を伝えたメニューであり、同時に私にとっては明るく優しかった一人のメイドが店にいた時に食べた大切な思い出。
松井玲奈の小説を薦めてくれたのも彼女だった。
「でさ、メイドが卒業するたびに部屋に観葉植物が一つ増えていくんだよ。それに卒業したメイドの名前をつけて毎日育ててるとか」
換気のために開けられら窓から春の風が入ってくる。その度に後ろのカーテンが少し私をかすめた。
「やばい人じゃないですか」
マスク越しに彼女が笑っていた。初めて会った時から印象的な笑顔。その時またカーテンが私をかすめる。
「今日は後ろのカーテン氏の機嫌が悪いみたいだね」
「カーテン氏って」
彼女がまた笑う。足りない頭から必死になって絞り出したくだらない冗談にも、彼女は優しく付き合ってくれた。
彼女が好きなホラー映画にかこつけたジョーク。こういうのを考えるのは苦手だ。
だけど不思議と彼女の前ではそれが苦ではない。居心地が良かった。今思えば、それは彼女の清楚な雰囲気あってこそのものだったのかもしれない。
ある時彼女が書いた絵が、店のスタッフの撮影ポイントになっていることを知った。
「もしもしメイドさん、ちょっとお尋ねがあるのですが」
店に来るまでの間に考えたネタを振ってみる。
「はい、何ですか」
彼女は真剣な眼差し。よし、ネタだということに気づかれていない。
「この辺りで、凄く個性的な動物の絵を描かれる女性画家さんの個展が開かれてると聞きました。知りませんか?」
彼女の瞳が一瞬大きく開いた。しかしすぐに冷静な返事が返ってくる。
「その画家さんは清楚?」
「そう、清楚清楚」
少し間を置いてお互い大笑いした。
明太子スパゲッティを食べたのも彼女が店に出ていた時だ。考えてみれば、私はその時までこの店で明太子スパゲッティを食べたことがなかった。
「めちゃくちゃ美味しそうですね」
運ばれてきた明太子スパゲッティを見て彼女が呟く。
「昨日のテレビを見ていたら食べたくなって」
ようやく食べた明太子スパゲッティは本当に美味しかった。その様子を彼女は嬉しそうに見ていてくれた。
店に来て、料理を食べて、何でもない話をして笑い合う穏やかな時間。
特別でないけれど特別な時間。
私が彼女と過ごした時間を言葉にするなら、きっとこういうものだったのだと思う。
「ほら、あれだよ。◯◯さんの結婚式に友達でも親族でもない謎の男達の集団がいるんだよ。ご祝儀持っていくから結婚する時は教えてね」
「あ、でも私結婚式の二次会この店でやりたいな。いつになるかわからないけど」
こんな何気ない会話も、今では全てが愛しい思い出だ。
笑顔の時だけではなかった。
あるメイドの卒業を知り、悲しみに沈んだ私が店に訪れた時に彼女と話した。
それまでの卒業の時以上の寂しさ。彼女は静かに話を聞いてくれた。
「一度私が卒業した日、沢山の人が来てくれました。何時間も並んでくれた人もいて、卒業って特別な時間なんだと感じました」
確かそんな話をしてくれたと思う。そしてその言葉を聞くことで、私は卒業という特別な時間を悔いの残らないよう見送ろうと決断できた。
今にして思えば、その言葉は彼女が自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。
彼女は卒業する寂しさも慣れ親しんだ場所から離れる怖さも知っていた。だからこそ店に出る一回一回の時間が大切なものだと誰よりわかっていたから、いつも私達の前で笑顔でいてくれたのではないか・・・
「私が卒業する時もブログ書いてくださいね」
ある時彼女がいった。
「わかった。できればそんな日が来てほしくはないけどね」
できるだけ明るく返事したつもりだった。
もちろんわかっていた。それは無理な願いだということに。
どうするかは結局自分次第だよ。僕がいとうちゃんを肯定してあげることは簡単だけど、結局は自分が肯定してあげないとなんにも変わらないと思うよ
引用:松井玲奈/『カモフラージュ』 集英社
「本当は人見知りなんです。でもメイドになって楽しかった。自分に自信がもてるようになりました」
久しぶりに会ったその日も、いつもと変わらない笑顔で彼女は話してくれた。
季節は春から秋に変わっていた。それでもまだまだ残っている夏の香りに、このまま時間が止まったらどんなにいいかと私は思った。
彼女と出会ってからの月日の中で、本当に様々なことがあった。
仕事でも私生活でも苦しいことも悩むこともたくさんあった。だがどれだけのことを経験しようとも、私には克服できず欠けているものがある。
それは自分を肯定する意思。自分に対しての自信。私にはそれがない。
だが結局、私もいつか自分で自分を肯定しなければならないのだろう。彼女がメイドという仕事を通して自信を持ったように。
「可愛いっていってもらえるのはこの職業の特権です」
優しい声が聞こえる。どうか遠くへ行かないでくれと伝えたかった。
自信とは何だろうか? これまで数え切れないくらい自分に問いかけてきた。答えはその度に違う。
だけど彼女と出会い思った。自信とは自分を好きな気持ち。
自分を好きになったら何がしたい?
彼女のように笑顔を絶やさない人間でありたい。明るさや笑顔はそれだけで人を勇気づけるから。
私はそれを知っている。そのことを教えてくれた人がいたから。
「接客について色々アドバイスをもらいました」
後輩のメイドがそう話してくれた。彼女がお店のことを思っている気持ちが伝わってきて嬉しかった。
悩み苦しんだいとうちゃんは、最後に自分が自分らしくいられる場所で生きていく決意をする。
「お前は子どもの頃はよく喋る明るい子だった」
いつか親がそういっていた。今の私はその頃の面影はないようだ。当の私ですらそう思う。
だが彼女と過ごした特別でないけれど特別な時間で、必死につまらないギャグをひねり出そうとしていた私。
それに笑ってくれた彼女。楽しかった。彼女が笑ってくれるのが嬉しかった。それはカモフラージュではない本当の私だったのか・・・
だとすればやはり素敵な出会いだったと思う。私を私でいさせてくれた出会い。大事な出会い。
私は彼女のことが素敵だと思ったし、彼女と過ごしたかけがえのない時間も好きだった。
きっと多くの人がそうだろう。
とても可愛い人だった。とても清楚な人だった。
まるでドラマなどで清楚な印象のある松井玲奈のように。
そう思う自分の気持ちにカモフラージュはない。
だからこれからの彼女の幸せな人生を心から祈っている。
大丈夫、きっとあなたならどんなことがあっても大丈夫だから。
素敵な未来に向かって行ってらっしゃいませ。