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書けばいいんだよ。
私は心の中でつぶやいた。そう、書けばいい。書いたらいい。
こんな風に、自分の気持ちを正直に吐き出して、苦しさを文字にぶつけて、吐き出してしまえばいい。
答えをくれる誰かを想像して、その人に伝えるつもりで、思いっきり、書いてみたらいいよ。
書くことは、自分を救ってくれる、最強の武器。
引用: 私の居場所が見つからない/川代紗生 ダイヤモンド社
2020年に開催された推しの生誕ライブの感想記事を書いた時、推しがそれを読んで泣いたことを教えてくれた。ありがとうといわれた。
ありがとうと伝えたいのは僕の方だ。
プロでもなく、才能のあるアマチュアでもない素人の僕が書いたものを読んで彼女が喜んでくれた。『書く』ということをやって良かったと心から感謝したかった。
あれから時が流れた。
彼女の卒業を知って以来、僕にはずっと考えてきたことがある。
「どうして僕は彼女を推しに選んだのだろう?」
偶然訪れたこの店で偶然出会った彼女を何となくいいなと思った。
確かにそれもある。
けれどそれだけではない何かがあるようにずっと感じていた。
彼女の卒業を見送るということは、同時にその答えを出すということでもある。
それは彼女と過ごした日々を経験した、今の僕という存在を知ることでもあった。
そして訪れた運命の日。2022年3月27日。
彼女のメイドとしての最後の物語が始まった。
この日の空は、前日までの荒れた天気が嘘のような青空が広がっていた。まるで晴れ渡った空も彼女の卒業を祝福しているように。
そういえば昨年、彼女が副メイド長になった生誕イベントの日も快晴だった。きっとその名前のように彼女には明るさを連れてくる力があるのだろう。
色々とやることを済ませ昼過ぎに店に到着。
開店から閉店まで店にいる(これをオーラスと呼ぶことをこの店で知った)というわけではなかったが、今からでも閉店までかなりの時間がある。
今日は終わりが来るその時までずっと店にいるつもりだった。
こんなに長くお店にいようと思ったのは初めてだ。
卒業イベントの時の店は常に満席となる。なるべく入りやすい時間を狙って僕はこれまでなるべく遅い時間に来ていた。
だけど今回だけは絶対に長く彼女の姿を見ていたかった。
仕事の時間と同じくらいの時間をこの場所で過ごすというのがどういう感じになるのかはわからない。
物凄くきついのか、それとも思ったよりは楽なものなのか。
だがそんなことはどうでもいい。何があってもここにいるんだ。
そう決意して僕は店のドアを開けた。
「お帰りなさいませご主人様」
いつもと変わらぬ声が出迎えてくれた。幸いにも席が開いていた。
「こんにちは、ご無沙汰しています」
久しぶりに会う顔見知りのお客さんも来ていたので挨拶を交わす。
今日は朝から終わりまでずっといるつもりだと話してくれた。
その言葉に今日卒業する彼女への優しさが込められていて僕も温かい気持ちになった。
「お帰りなさいませ」
オーダーを取りにメイドがやってきた。以前僕が店に来た時に何度も「大丈夫!?」と心配して声をかけてくれた子だ。
「ただいま。今日はよろしくお願いします」
僕のその言葉に彼女もうなずく。
もうすぐ彼女もこの店に来て一年だ。推しが卒業すれば、メイドの中でもベテランの枠に入る。
彼女の顔にも寂しさが感じられた。同時にどことなく決意を秘めたような、そんな目をしていた気がする。
約一年前、推しがメイド3周年をむかえた日に彼女も店に出ていた。
先輩メイドの後ろに隠れるようにくっついていた姿がまるで嘘のように、今の彼女は堂々と接客をしている。
立派になったと思った。
推しの3周年で嬉しそうな僕の姿を見ていたから、君はたくさん心配してくれたんだよね。その優しさがとても嬉しいよ。
ありがとう。
卒業イベントの時はそのメイドにちなんだ料理が提供される。
僕が最初に注文したのはドーナッツ。推しが大好きな食べ物だ。
まるで揚げパンのように大きくて中身の詰まったドーナッツは食べごたえ十分で、二個あるうちの一個を食べただけでお腹いっぱいになりそうだった。
僕もドーナッツは好きだが専門店に食べに行くほどではなかった。
今は誰も覚えていないであろう数年前のコンビニドーナッツ戦争の時は興味本位で食べていた時代があったが、それもブームが過ぎてしまえばお終いである。
たまにスーパーで朝食用に買うくらいだった。
だけど推しがドーナッツが好きと知ってから、差し入れのために街のドーナッツ屋を尋ねるようになった。
ネットやラジオから情報を得ていくつかの店に行った。
そこで買ったものを推しは喜んでくれたし、僕自身もお店を知ることが楽しかった。
以前の僕からは考えられないことだ。
お店で会う時だけでなく、こんな風に動き回っていた時も推しがいてくれた大切な時間だったのだと今は思う。
僕の世界をたくさん広げてくれた。想い出の一つ一つが愛おしい。
「こんにちは。ツーショットチェキお願いします」
推しの声が聞こえた。初めて見る可愛い衣装を着ている。
アイドルをイメージした衣装で推しが大好きなピンク色が素敵だった。
「どんなポーズしましょうか?」
「これを持ってください」
僕は彼女にプレゼントするソープフラワーを取り出した。
「可愛い!」
その笑顔にホッとする。喜んでくれて良かった。だけど・・・
花よりも君の方が可愛いよ。
壁に飾ってある彼女の似顔絵が切なかった。
いつもと変わらぬ彼女。だけどもう次はない。これが最後なのだ。
「卒業おめでとう」
絞り出すように僕は伝えた。
「震えてますよ、大丈夫ですか!?」
チェキを撮ってくれたメイドが心配して声をかけてくれた。
自分でも気づかなかった。僕は大丈夫と返事をする。
「ありがとうございます。寂しい・・・」
推しがそう答えた。後で聞こえてきた話ではもう既に何度も泣いていたそうだ。
それならば行かないでくれ
心の中でそう思った。
今日のお客さんの様子を見ていたら、もしかしたらぎりぎりで考え直してくれるのではないか・・・
卒業の日に卒業を取り消す。前代未聞だけど彼女ならそれをやってもきっと許されるのではないか。
月に一回、半年いや一年に一回でもいい。
ここに来て「お帰りなさいませ」といってくれたら・・・
「それは考えないと決めただろう」
心の中でもう一人の自分の声がした。
その通りだ。
ここにいて欲しいという気持ちも本当。
だけどこれから新しい世界で、自分の可能性をどんどん広げていって欲しいという気持ちも本当。
かって自分が社会に出る時に希望を抱いていたように、彼女にも未来に進み続けていって欲しかった。
この日の限定グッズには彼女の最初で最後の写真集が用意されていた。
迷わずそれを注文した。
彼女のチェキも何枚も撮ってきた。それでも写真というものは一枚一枚が全て特別なものだ。
スタジオで撮ったと思われる写真はどれも素敵だ。
「このマカロン後で食べたんですかね?」
相席していた顔馴染みの方が僕に質問した。
「どうですかね? 本物だった彼女のことだから食べたかも知れません」
そういって二人で笑った。
考えてみれば人見知りの僕にお店でこんな風に話せる人間関係ができるなんで思わなかった。
これもお店で過ごした日々、そして彼女がいてくれたからだ。
「こんにちは。会えて良かったです。ブログ読みましたよ、四回も」
メイドの一人がそう話しかけてきた。彼女にも世話になった。
僕が書いたメイドの卒業記事を過去のものからずっと読んでいて、推しの卒業に関する記事も読んでくれたそうだ。
そのことが本当に嬉しかった。
「卒業を知ってからの思いが描かれていて、読んでいて楽しかったです」
楽しかった思ってもらえたのが僕は嬉しかった。
重い心情をつづっていても、それでも『読まれる』ということを少しは意識していた。
漫画や映画もそうだが、どんなシリアスな話でも少しはユーモアがないと見ている方は疲れてしまう。
上手く表現できたかどうかはわからないが、それでも彼女のその言葉が嬉しかった。
「休憩時間に入りますね」
イベントの時に朝から夜まで一日中店に出るメイドは途中で休憩に入る。
前半の残りの時間は今入っている他のメイドたちで接客を行うため、店の奥に入るまでのわずかな時間が前半のメイドたちと推しとの別れの時だ。
ふと見ると僕をずっと「大丈夫!?」と心配してくれていたメイドが推しと話しながら泣いてた。向かい合う推しも泣いている。
僕にはその二人が、同じ時間に店に出ていた印象があまりなかった。
だけど目の前で涙を流す二人の姿に、同じ時を過ごした仲間としての確かな繋がりを感じることができた。
何を話しているかまでは聞こえない。
それでもその場にいたメイド一人一人と推しに絆があったことを知れて僕は幸せだった。
「以前いた方の卒業イベントで泣かれていました。きっと仲間がたくさん辞めていって寂しかったから。その時完璧だと思っていたあの人にも弱い部分があること知りました。私に『やめないでね』と声をかけてくれたのが嬉しかったです」
メイドの一人が彼女との想い出を語ってくれたのを思い出す。
推しは強い。だけど同時にとても繊細な部分がある。感じる心を持っている。
それこそが彼女の持つ優しさだったのだと思う。
僕も、そしてこの卒業を見送るために来た人たちもそんな彼女の人間臭さに惹かれた部分はきっと大きい。
素敵だよ、君は本当に。
推しが店の奥に入ると、少しの間落ち着いていた時間が店に流れた。
既にこの時間までにも彼女と最後の別れを交わしたお客さんが何人もいた。
その一人一人を丁寧に見送る彼女。その度に涙を浮かべていた。
疲れただろう・・・ 大変だっただろう。
どうか少しだけ休んでおいで。
時間が進めばそれだけ彼女との別れが近づいているのはわかる。
それでもどこかまだ自分の中で落ち着いた気持ちがあった。
まるでいつもの日曜日と変わらないように。
「こんにちは」
気がつくとメイド服を着た後半に店に出るメイドたちがそこに立っていた。もうそんな時間だった。
卒業イベント後半の衣装はメイド服。それも現代のメイド服とは違う、以前のデザインのメイド服だ。
彼女らしい選択だと思った。
長い間メイドとして過ごした彼女はきっとどんな衣装にも想い出があるだろう。
お気に入りの衣装もいくつもあっただろう。
だけど彼女はメイド服を選んだ。
「メイド服が一番好き」
彼女がそういっていたことを思い出す。
同時に以前のデザインのメイド服を選ぶことで、彼女がどれほどこの店のことを愛していたのかが伝わってくるようだった。
「それじゃあ私たち時間なのでこれで」
前半のメイドたちが勤務を終え挨拶に来た。
「お疲れさまでした。ありがとうな・・・ 本当に色々」
そう、この約三週間色々あった。メイドたち皆に話しを聞いてもらった。
寂しさと悲しみを吐露しながら・・・
彼女たちよりずっと長く生きているにも関わらず、子どものように寂しいという僕を彼女たちは心配してくれた。そして励ましてくれた。
そのことにいくら感謝してもしきれない。
「ううん・・・ 頑張ってくださいね」
また励まされた。本当は僕こそ彼女たちを励まさねばならなかったのに。
ありがとう、本当にありがとう。
「先輩たちがいなくなっちゃうけどさ、応援するから頑張れよ」
一人のメイドに僕は声をかけた。まだ店に来て一年も経っていない。
気持ちの整理はついていないのかもしれない。でも時間は待ってくれない。
心がどういう状態であれ、進まなければならない時には進むしかない。
「こんにちは」
愛しい声が聞こえた。メイド服を着た推しがそこに立っている。
懐かしい姿。まだ僕がこの店のこともよく知らず、君のこともよく知らなかった頃の姿。
だけどその頃より何倍も何倍も成長した推しの姿がそこにあった。
きっとあの頃は自分が副メイド長になるなんて想像もできなかっただろう。
そして卒業の日がいつ来るかも想像できなかっただろう。
僕もそうだ。こんなにこの店に通うとは思わなかった。
偶然出会った君をこんなにも推すようになるなんて想像もできなかった。
出会った頃は想像もできなかった僕と推しとの日々は今、本当のラストへと動き出していた。
(最終回へ続く)