ちょうど去年の今頃はメイドカフェで働く推しの卒業が発表された頃で、深い悲しみの中にいた。
過ぎてみればあっという間の一年だったけど、この時間は自分にとっては何だったのだろう?
余生・・・・・・ という言葉を軽々しく使っていいものかわからないけれど、どこかそんな気持ちで、推しの卒業後に出会った子たちに接してきた気がする。
縁というものが人生にはある。
推しがいた時代に自分が初めて店を訪れたことが縁ならば、余生を送るような気持ちの時に何人かの子たちに出会ったのも縁だったのだろう。
その子たちに何かができたとは強くは思えない。
もっとこんなことをしてあげたかったとか、こういう話をしたかったとかそういうことの方がたくさん思い浮かぶ。
メイドは近い距離にいる人たちではないから、できることといってもさほど多くはない。
気がつくとルールを守って遊ぶために、自分とメイドとの間には一枚の壁があると考えて接している自分がいる。
そのことが以前のような熱を心の中から奪い去ったのだとするなら、それもまた仕方ないことなのかもしれない。
時間の流れとともに環境も変わったと思っていた。でも変わったのはそれだけではない。
自分自身も、それと気が付かない間に少しずつ変わっていた。
そんな変わっていく時期に出会ったメイドがまた一人卒業する。
誰にでも臆することなく話しかける明るい子だった。少なくとも自分にはそう見えた。
ダンスが好きで、この店で出会ったメイド仲間のことが好きな子。
他の店で働く子からも愛された子だった。
たくさん会えたわけではないけれど、それでもいなくなってしまうことはやはり寂しい。
永遠に会えるなどとは決して思ってはいないけれど、これから元気でいてくれるだろうかとか、幸せになって欲しいとか考えている。
そんなに遠くない昔、まだ推しがいた頃の自分は良く言えば素直、悪く言えば深く考えず色々なことを話していたように思う。
そんな自分の姿がどう映っていたかは、その頃を知る子たちの多くが卒業してしまった今となってはあまりわからない。
わかるのは、今の自分は昔よりも壁を意識している感覚があるということ。
熱い時代が終わった今、見守り役に徹していけたらいいとぼんやりと考えている自分がいること。
きっとこんなことは、普通なら考えなくてもいいことなのだろう。
メイドカフェは行きたい時に行ってただ楽しく遊ぶ場所。
それが多分正解なんだと思う。
それでも、単純にそうとは割り切れない自分がいるのも確かだ。その理由はきっと、この場所があることが日常の一部になっているから。
大切にしていくためにたどり着いた自分なりの心の形。それが今の状態。
その形が正解か不正解なのかはわからない。
だけどいざ卒業して会えなくなると思うと、やはり以前のように少し踏み込んで色々な話をして交流を深めたかったとも思う。
小さい頃はどんな子どもだったかとか、最初に観た映画や読んだ本の話など話したいことはたくさんあったはずだ。
以前ならできていたことができなくなったのは、余生という殻を自分で作ってそこに閉じこもっているからか・・・・・・
本当はもっともっと話がしたかった。SNSに投稿していた動いている姿もたくさん見たかった。
そのことを言葉で伝えることもできたはずなのに、それをすることもできなかった。
だけどマイナスなことばかりではない。彼女と出会い、残ったものもある。
それは彼女がこの場所でかけがえのない出会いに恵まれたこと。
それを見ていて嬉しいと思った自分の気持。
そういうものが残ったことで、これまで見送ってきたメイドたちが守って繋いできたものがここに生きていると感じることができた。
そう思うことで、例えここにはいなくても推しと自分との間に今でも確かなつながりがあるような、そんな気がするのだ。
これから彼女が進む先に何が待っているのかはわからない。
だけど願わくば、この場所であったような素敵な出会いに恵まれた人生になることを願っている。
何もしてあげられなかったけれど、素敵な未来を掴んでくれることを願いたいと思った。
そしてもう一つだけ、こうだったらいいと思うことがある。
自分との出会いが彼女の中で、想い出のひとかけらにでもなっているのならそれに勝る喜びはない。
この場所でのメイド生活お疲れ様でした。
新しい世界の扉を開けるために、そこで楽しく踊るように生きていってくれることを願って・・・・・・ 行ってらっしゃいませ。