大丈夫。わかりあえるよ。 だって人間同士なんだから。
引用:仮面ライダークウガ 第35話 東映
『仮面ライダークウガ』の第35話。主人公・五代雄介が保育園で働く妹・みのりとの電話中に語った言葉。
みのりのクラスで、二人の男の子の喧嘩が勃発。
雄介は彼らを気にかけながらも、未確認生命体と戦うために保育園を離れなければなりませんでした。
折しも、この時殺人ゲームを行っていたのは残虐な手段で人間の精神を追いつめるゴ・ジャラジ・ダ。
そのやり方とは、気づかれぬようにターゲットの頭に小さな針を埋め込み、時間が経つとその針が頭の中で巨大化して相手を殺害するというもの。
一度埋め込まれた針は取り除くことは不可能。ゲームのターゲットは男子高校生達。
恐怖に怯える彼らをあざ笑うように、神出鬼没に姿を現すジャラジ。
最後のターゲットである少年に迫るジャラジに、遂に雄介の怒りが爆発する‥‥‥
クウガの第34話『戦慄』と第35話『愛憎』は、その内容と映像表現の凄まじさから現在も多くの人の記憶に残るエピソードです。
中でも怒りに任せてジャラジを滅茶苦茶に殴りつけ、最後はライジングタイタンの剣で滅多切りにして倒したクウガの姿は衝撃的でした。
敵を倒してもいつものようにサムズアップをすることなく、その場に立ち尽くす雄介。
どこか仙人のような雰囲気を持っている雄介も、良い意味でも悪い意味でも怒りに飲まれる可能性を持つ『普通の人間』であることが示されています。
様々なことを考えさせられるジャラジ編。
この前後編はジャラジの残虐さとそれに怒り狂うクウガの姿を通して、ヒーローも一歩間違えれば怪人と紙一重の存在であることを考えさせられます。
人間を『殺す』ことを楽しむジャラジ。そのジャラジに『殺す』意思を持って対峙したクウガ。
勿論、クウガの戦いはグロンギから人々を守るためのものです。
ですが、怒りの感情に飲み込まれた時にクウガの戦いは『守る』ための戦いから『殺す』ための戦いになる。
『殺す』ための戦いはグロンギが行っていること。クウガがグロンギになりかけている。
そういう意味で、クウガへの警告のために凄まじき戦士=アルティメットフォームの幻影が登場したのは印象的でした。
現実の私達に目を向ければ、大きな理想を掲げていたはずなのにいつの間にか望んでいたことと正反対のことをしていることはよくあります。
恋人への愛が憎しみに変わる時。信じていた友人との友情が嫉妬に変わる時。
スターウォーズで語られる『フォース』の光の面と暗黒面のように、私たちは誰もが容易に闇に堕ちる可能性を持っている。
光が大きくなる程、闇もまた大きくなって常にその口を開けている。
光と闇は表裏一体。そうしたことをクウガのこのエピソードからは感じられました。
この話の中で、一つだけ自分の中でひっかかり続けていたことがあります。
だからこそ、今回の話はクウガの中で異色の話だと思っています。
実は、未確認生命体が起こす事件に立ち向かうクウガという話の構成自体は、今回の前後編はこれまでの話から外れたものではありません。
未確認生命体が起こす事件。雄介の周囲の人々の様子。クウガの戦闘場面も、ちゃんと前後編両方に描かれています。
壮絶な場面の印象が強い今回の話。
しかし、戦闘シーンがない第43話『現実』やクウガが登場しない最終回『雄介』の方が作品全体の中では異色の存在感を放っています。
では何が一番自分にとって異色だったのか。
冒頭に書いた雄介の台詞。この台詞は、意地悪に捕らえれば『人間でない存在』とは分かり合うことができないと捉えることができます。
「雄介の口からそんな言葉を聞きたくなかった」
クウガ放送当時は中学生でしたが、そう思った自分が確かにいたのです。
自分が見てきた五代雄介という男はそんな小さな存在だったのか。
失礼この上なくて申し訳ないですが、今まで雄介に抱いていた理想がどこか壊れてしまった気がしました。
それこそが今回のエピソードの狙いかもしれませんが、それでも異形の者達が存在する世界でその考えはどうなんだろうと思ってしまったんですね。
この場合の『人間でない存在』とは必然的にグロンギになるんですが、勿論彼らと人間が共存することは不可能です。
ですが、グロンギは魔石の力で怪人の姿と力を手に入れた『人間』であったことが明らかになります。
同じ人間なのに、グロンギは『分かり合えない存在』でそれ以外の人は『分かり合える存在』。
私達の現実世界もそうで、やっぱりどうしても「この人と分かり合えない」と思ってしまう人はいます。
結局人間同士がわかり合うことなんて不可能。人生を振り返れば、そう思ったことも一度や二度ではありません。
自分がこの前後編に感じたひっかかりの正体。
それは、それまで共感したり感銘を受けたりしていた五代雄介の言葉を受け入れたいけど受け入れられないという『戸惑い』。
これだったのだと思います。
#クウガ20周年配信 政治要件的な主人公の強化をヒーローの戦いの本質に重ねて描こうとした本作。EP34&35(修羅覚醒編)では愛と憎しみを持つ人間の在り方が雄介にも求められ。それはオダギリジョーが演技者として表現したかったものでもあったことから、結果大きな化学反応になったと考えています。 pic.twitter.com/dkKLSRFwQa
— 高寺成紀☺2月13日(土)クウガ20周年イベント@シアタス調布 (@taka_69s) January 9, 2021
繰り返しになりますが、今回の前後編は五代雄介も普通の人間であることを描こうとしたわけで、自分の抱いた感情はもしかしたら製作者の狙い通りなのかもしれません。
この戸惑いへの答えとして、クウガの中でも名台詞として知られる「本当は綺麗事が良いんだもん」という雄介の思いが後のエピソードで語られます。
果たして人間同士は分かり合えるのか、分かり合えないのか。
ガンダムシリーズなどたくさんの作品でも描かれたこのテーマ。
もしかしたら、無限にある創作物の中で一番描かれたテーマはこれなのではないでしょうか。
その答えは、現実を生きる私達一人一人が見つけるもの‥‥‥ 見つける努力をしていくもの。
現実的な問題に敢えて『これだ!』という答えを用意しなかったことも、クウガのリアリティを高めていたことに気づかされます。
また、人間外の存在とは分かり合えないというテーマは『仮面ライダー555』や『仮面ライダー剣』等の後続作品において、それぞれの描き方で追及されていくことになります。
後の作品にも少なからず影響を及ぼしたと考えられる本作。
ジャラジ前後編は様々な意味で異色の、ですが仮面ライダークウガという作品を語る上で欠かせないエピソードです。