
- はじめに
- 子どもの頃、ゲームは「微妙」な存在だった
- 大人になって気づいたこと
- 現実とゲームの距離
- 「純粋な楽しい時間」という価値
- 変わったのは「遊び方」でなく「入口」
- それでもゲームの本質は変わらない
- 今できることを考える
- おわりに
はじめに
ゲームイベントに足を運んだ。
特別な目的があったわけではない。
ただ、かつて人並みにゲームが好きだった人間として、今の空気を見てみたかった。
そこで感じたのは、懐かしさと、少しの距離だった。
子どもの頃、ゲームは「微妙」な存在だった
私が子どもの頃、ゲームに対する大人の評価は決して良いものではなかった。
- 勉強の邪魔になる
- 外で遊ばなくなる
- 依存してしまう
そんなネガティブな声が当たり前のようにあった。
一方で、当時はまだコンピュータ自体が広がり始めた時代でもあり「ゲームを通して機械に慣れる」という見方もあった。
つまりゲームは良いとも悪いとも言い切れない、曖昧な存在だった。
大人になって気づいたこと
子どもの頃は意識していなかったが、今振り返るといくつか気づくことがある。
例えば、スポーツゲーム。
現実で運動が得意でなくても、ゲームの中では自由に動けた。
それはただの遊びではなく「できたかもしれない自分」を疑似体験する場だったのだと思う。
また、ゲームを進めるには繰り返しが必要だった。
失敗して、覚えて、もう一度やる。
この過程は、思っていた以上に根気を使う。
当時は気づかなかったが、ゲームが上手いということ自体が、一つの力だったのかもしれない。
現実とゲームの距離
ただし一方で、どれだけゲームが上手くなっても、現実の自分がすごいことをできるようになるわけではない。
この事実は、はっきりしている。
ゲームの中での成果と、現実の評価は別物だ。
そこには越えられない線がある。
だが今は、その前提の上で時代が少し変わってきている。
ゲームを「する」ことそのものが、配信や動画を通じて誰かに見られ、価値を持つ時代になった。
かつては個人の中で完結していた遊びが、他者に伝わる“表現”として成立するようになった。
「純粋な楽しい時間」という価値
そして最近、強く感じることがある。
ゲームは、「純粋に楽しい時間」をくれるものではないかということだ。
今は、あらゆるものが比較される。
- 勉強
- 仕事
- スキル
- 資産
- 持っているもの、行った場所
本来は娯楽であるはずのものすら、どれだけ経験したか、どれだけ持っているかが可視化される。
それに息苦しさを感じている人も、少なくないのではないだろうか。
だが、子どもの頃にゲームに熱中していた時間を思い返すと「楽しさ」とはそんなに難しいものではなかったと気づく。
難しいステージをクリアしたとき。
思わず笑ってしまう演出に出会ったとき。
ラスボスを倒せたとき。
誰に見られなくても、褒められなくても、
一人でも確かに楽しかった。
比較などしなくても、私たちは自分自身で楽しさを感じることができる。
変わったのは「遊び方」でなく「入口」
少しネットなどで目にしたことによると、今のゲーム業界は大きく変わっている。
かつては「好き」という気持ちが入口だったものが、今は「何かを作っていること」が前提になりつつある。
クリエイターになるには、早い段階から行動していることが求められる。
夢の延長というより、すでに準備を終えた人間が集まる場所に近い。
それでもゲームの本質は変わらない
ただ、それでも思う。
ゲームそのものの価値は、変わっていない。
- 誰でも楽しめる
- 一時的に現実から離れられる
- 自分だけの時間を持てる
この部分は、昔と同じだ。
今できることを考える
クリエイターになるハードルが上がっているのは事実だと思う。
だが、それとは別に考えたい。
「今の自分にできる関わり方は何か」
作ることだけが関わり方ではない。
遊ぶこと、見ること、考えること、言葉にすること。
どれも立派な関わり方だと思う。
おわりに
かつてゲームが好きだった人間として、今の世界を少しだけ覗いた。
そこは確かに変わっていた。
だが、完全に別のものになったわけではない。
そして何より、変わっていないものもある。
誰かと比べなくても、自分一人で楽しいと思える時間。
それを思い出させてくれるのが、ゲームという存在なのかもしれない。