ネコはミカンを片手に夜明けを待つ

日々の中で出会った映画・本・お店、演劇や物などを総合的に紹介する雑記ブログです。

ゲームがくれたものと、後から気づいた価値の話

 

はじめに

ゲームイベントに足を運んだ。
特別な目的があったわけではない。
ただ、かつて人並みにゲームが好きだった人間として、今の空気を見てみたかった。

そこで感じたのは、懐かしさと、少しの距離だった。

子どもの頃、ゲームは「微妙」な存在だった

私が子どもの頃、ゲームに対する大人の評価は決して良いものではなかった。

  • 勉強の邪魔になる
  • 外で遊ばなくなる
  • 依存してしまう

そんなネガティブな声が当たり前のようにあった。

一方で、当時はまだコンピュータ自体が広がり始めた時代でもあり「ゲームを通して機械に慣れる」という見方もあった。

つまりゲームは良いとも悪いとも言い切れない、曖昧な存在だった。

大人になって気づいたこと

子どもの頃は意識していなかったが、今振り返るといくつか気づくことがある。

例えば、スポーツゲーム。
現実で運動が得意でなくても、ゲームの中では自由に動けた。

それはただの遊びではなく「できたかもしれない自分」を疑似体験する場だったのだと思う。

また、ゲームを進めるには繰り返しが必要だった。

失敗して、覚えて、もう一度やる。
この過程は、思っていた以上に根気を使う。

当時は気づかなかったが、ゲームが上手いということ自体が、一つの力だったのかもしれない。

現実とゲームの距離

ただし一方で、どれだけゲームが上手くなっても、現実の自分がすごいことをできるようになるわけではない。

この事実は、はっきりしている。

ゲームの中での成果と、現実の評価は別物だ。
そこには越えられない線がある。

だが今は、その前提の上で時代が少し変わってきている。

ゲームを「する」ことそのものが、配信や動画を通じて誰かに見られ、価値を持つ時代になった。

かつては個人の中で完結していた遊びが、他者に伝わる“表現”として成立するようになった。

「純粋な楽しい時間」という価値

そして最近、強く感じることがある。

ゲームは、「純粋に楽しい時間」をくれるものではないかということだ。

今は、あらゆるものが比較される。

  • 勉強
  • 仕事
  • スキル
  • 資産
  • 持っているもの、行った場所

本来は娯楽であるはずのものすら、どれだけ経験したか、どれだけ持っているかが可視化される。

それに息苦しさを感じている人も、少なくないのではないだろうか。

だが、子どもの頃にゲームに熱中していた時間を思い返すと「楽しさ」とはそんなに難しいものではなかったと気づく。

難しいステージをクリアしたとき。
思わず笑ってしまう演出に出会ったとき。
ラスボスを倒せたとき。

誰に見られなくても、褒められなくても、
一人でも確かに楽しかった。

比較などしなくても、私たちは自分自身で楽しさを感じることができる。

変わったのは「遊び方」でなく「入口」

少しネットなどで目にしたことによると、今のゲーム業界は大きく変わっている。

かつては「好き」という気持ちが入口だったものが、今は「何かを作っていること」が前提になりつつある。

クリエイターになるには、早い段階から行動していることが求められる。

夢の延長というより、すでに準備を終えた人間が集まる場所に近い。

それでもゲームの本質は変わらない

ただ、それでも思う。

ゲームそのものの価値は、変わっていない。

  • 誰でも楽しめる
  • 一時的に現実から離れられる
  • 自分だけの時間を持てる

この部分は、昔と同じだ。

今できることを考える

クリエイターになるハードルが上がっているのは事実だと思う。

だが、それとは別に考えたい。

「今の自分にできる関わり方は何か」

作ることだけが関わり方ではない。
遊ぶこと、見ること、考えること、言葉にすること。

どれも立派な関わり方だと思う。

おわりに

かつてゲームが好きだった人間として、今の世界を少しだけ覗いた。

そこは確かに変わっていた。
だが、完全に別のものになったわけではない。

そして何より、変わっていないものもある。

誰かと比べなくても、自分一人で楽しいと思える時間。

それを思い出させてくれるのが、ゲームという存在なのかもしれない。