葉真中顕の小説『絶叫』を知ったのはメイドカフェだった。
そこで働くメイドの女の子と本の話になり、お勧めの作品として教えてもらったのが本作である。
申し訳ないことに教えてもらってから読むまでかなり時間がかかってしまったが、いざ読み始めるとページをめくる手が止まらなくなるほど個人的に面白い小説だった。
物語は二つの事件と二人の女性の視点で進んでいく。
その過程で様々な謎とキャラクターが登場するが、バラバラだった二つの物語がラストへ向かって収束していく疾走感を本作の魅力としてまず挙げたい。
この疾走感を分かりやすく例えるなら、特撮ヒーロー作品の『仮面ライダーアギト』だ(特撮を知らない方には申し訳ない)。
伏線、人物供に無駄なものが一切なく隙がない。
それでいてオチがどうなるか最後まで読者の期待を良い意味で裏切る展開となっている。
本作はミステリーだが単純に警察が犯人を追い詰める内容ではなかった。
そこに描かれていたのは逆境の中で『生』への欲望を強め、自分自身の存在を確立させていく人間の姿である。
マンションで孤独死をむかえ、猫に亡骸を食われた『鈴木陽子』という女性の事件を女刑事『奥貫綾乃』が追っていく。
陽子と綾乃の視点が切り替わりながら物語が展開されるが、圧巻なのは陽子の人生の描き方だ。
まるでどこかで見てきたかのように、幼少時代から陽子の人生が詳細に描かれていた。
もちろん、今までにも主人公の人生が描かれた小説を読んでこなかったわけではない。
しかし陽子の平凡な、それでいて誰の身にも起こりうる境遇は圧倒的なリアリティをもって読者の胸に迫ってくる。
実のところ陽子が変化するポイントとなる部分にはファンタジックな要素が含まれており、その部分だけは展開に多少だか力技の印象を受けた。
だがそんなことも陽子の繊細な心情の移り変わりに引き込まれてしまえば小さなことである。
それほどまでに私は陽子の心情に共感していた。
主要な登場人物の大半がどこか問題を抱え病んでいるような作品だが、本作を読み終わった時に真っ先に思い出したのが映画『ジョーカー』だった。
私は『ジョーカー』を『生』を肯定する作品だと思っている。
ジョーカーの主人公・アーサーも絶叫の鈴木陽子も環境により大きく人生を歪められた人間だ。
もちろん最終的に一線を越えて悪の道に堕ちていくのは本人たちの責任であり、それを否定するつもりはない。
否定するつもりはないのだが、そうした選択が彼らの力だけではどうにもならない環境がもたらしたものであることに人生の悲しみがあると思う。
それがわかるから観客、あるいは読み手は彼らがどれだけ狂っていたとしても同情を感じずにはいられない。自分自身を重ねずにはいられないのだ。
そして一線を越えた心は自分自身の存在を確立させる。生きることに前向きになるのである。
『絶叫』が後味の良いラストとはいえないにも関わらず、読んだ後に不思議と爽快感を感じるのはまさにこれが理由だ。
平凡な家庭であるにも関わらず、母親の歪な愛情の中で育った自分に自信のない少女が強くなっていく過程こそが本作の芯である。
陽子が自分がこの世界に生きていてもいいと思えるようになるまでの物語が本作であり、息苦しさに押しつぶされそうな現代社会では陽子に共感する人も少なくはないように思う。
だからこそ刑事として真実に迫るべく陽子を追ってきた綾乃がラストで陽子にシンパシーを感じる展開にも違和感はなかった。
そして私は恐ろしさを感じると同時に陽子の幸せを願わずにはいられなかった。
現実の世界で私たちは陽子のようになってはいけないけれど、自分の存在を認められるのは自分だけである。
『毒をもって毒を制す』ではないが、どうしようもなく辛いことがあった時は無理に明るい作品に触れるより敢えてダークな作品に触れることもありだ。
葉真中顕の作品を読むのは初めてだったが、こんなに面白い作品だと思っていなかったので読めて良かったと思う。
作品の中で陽子が経験する出会いは散々なものだったが、本作を紹介してくれたメイドと出会えたのは私にとって幸運だった。
時にはこうした幸運も人生には起こるのだから、悪いことが続いても自分の『生』を肯定していきたいと感じる次第である。