素朴な疑問
ジョジョの奇妙な冒険第3部「スターダストクルセイダース」のラスボスはDIO。
そのDIOのスタンド「ザ・ワールド」の能力は時間を止めることだった。
ふと思ったのだが、なぜザ・ワールドの力は時間を止めるものになったのだろうか。
その疑問を抱いた理由は、DIOが不老不死ということである。
ジョジョの奇妙な冒険を知っている人には周知の事実だが、DIOは第1部「ファントムブラッド」で石仮面というアイテムを使って吸血鬼となった。
人間を超えた力と寿命を持ち、第1部のラストで主人公であるジョナサン・ジョースターと相打ちになったDIO(第1部ではディオと表記)。
死闘の末敗れたかに思われたDIOだったが、ジョナサン・ジョースターの肉体を乗っ取ることで生き延び、100年の時を経てジョナサンの子孫である空条承太郎たちと戦うことになる。
数多くの敵を倒してきた承太郎たちも時を止めるDIOの力に大苦戦するが、最終的に承太郎も自身のスタンド「スタープラチナ」が時間を止める能力に目覚めDIOを倒す。
作者によると「時間の束縛から自由になりたい」というDIOの心理が時間を止めるという能力を目覚めさせたらしい。
だけど時間を止めなくてもDIOは不老不死なのだ。そんなDIOがどうして時間の束縛から自由になりたいと考えていたのだろうか?
夜しか活動できないのがもどかしかったから
個人的にたぶんこれが一番の理由だと思う。
吸血鬼は日光を浴びると消滅するから夜しか活動できない。
もっと夜が長ければ・・・ そんな思いがザ・ワールドの「時間を止める」という能力につながったのではないか。
シンプルな理由だけど、朝が来て夜が来てまた朝がくるという世界の法則に立ち入ってコントロールする力。
この世界にいながら自分だけ別の世界に立ち入る力。
ザ・ワールド=世界とはよく名付けられたものだと思う。
DIOは救いのない悪人で、やってることには共感できない。
だけど人間を越えたDIOであっても「日中動けないのがもどかしい、辛い」なんてジレンマを感じていたのかと想像すると、そこに人間味を感じる。
100年という時間に寂しさを感じたから
もう一つ思ったのが、ジョナサンと相打ちになり目覚めたら100年後だったという事実。
作中ではほとんど言及されていないが、このことも少なからずDIOに影響を与えたものがあったのではないだろうか。
なんせ過去の自分と会ったことがあり、直接知っている者が世界に誰もいないのである。
悪の王であるDIOの姿から想像するのは難しいが、その事実はDIOでさえわずかに寂しさを感じたんじゃないかと思う。
その根拠となるのはジョナサンへの執着だ。
他人を道具としか見ていないDIOが唯一尊敬し認めた存在。
これはDIOの心にも他者を求める気持ちがあったことを意味している。
だが100年後の世界には以前の自分を知る者は誰もいないのだ。
この時代で出会ったエンヤ婆をはじめ部下のスタンド使いたちもいたが、それでも100年の時間と自分が人外であることもあって隔たりを感じていたのかもしれない。
一番心を熱くさせる相手であったジョナサンは葬った。
だがもし100年前に眠りにつくことがなければ、当然その時代の波紋戦士たちと戦いになっただろう。
それはDIOや石仮面の恐怖を知る者たちとの戦いだ。吸血鬼の力に怯え、屈服する者たちの姿にDIOは満足を覚えただろう。
だが100年後のスタンド使いの部下たちからしてみれば、DIOには恐怖こそ感じても案外「吸血鬼?そんなん知らん?」みたいな感覚があったのかもしれない。
実際彼らは石仮面やかつてのDIOの戦いを見たこともないし、何より彼ら自身にも人知では計り知れないスタンド能力がある。
そんな彼らからしたら、意外と怪物としてのDIOの恐ろしさにピンと来なかったのかもしれない。
なんせスタンド能力は使いようによっては、吸血鬼よりもグロくて恐ろしいこともできるのだから。
そう考えると100年後の眠りから覚めたDIOになんだか「終わった人」のような哀愁を感じてしまう。
もしも時間が止まって100年前のままだったら、自分を知る者たち相手にもっと熱さを感じる戦いができたかもしれない。
時間よ止まれ。私を置いていくな。
このような思いがザ・ワールドの能力になったのかもしれない。
最後に
第3部の原作で、DIOの深い心の中まで描かれなかったのは少年漫画として正しい描写だったと思う。
読者がDIOに共感しすぎてしまっては承太郎がDIOを倒す爽快感がない。
それはわかるけれども、描かれなかった部分でもしかしたらこうだったのかもと考えることも漫画の楽しみ方の一つだ。
DIOというキャラクターは大物ぶっていても根っこの部分では小物の一面がある。
だがそういったところが人間味を感じさせて、悪役でありながらも色褪せない魅力を放っている。
人間を越えた力、美しい容姿、カリスマ性、野望のために努力できる心を持ちながら昼に動けないことを不便に思い、眠りから覚めた未来で誰も自分を知らぬことに寂しさを感じた哀しい男。
そんな彼の姿を忘れないでいてやることが、死んで墓さえ作られることのなかったこの男への供養になるのかもしれない。